漕戸もりなんていう、いかにも名古屋人が得意とするような
下手な駄洒落で筆名をつけたからか、それとも
ただ単純に年齢がそうさせているのか定かではないけれど、
生きることや死ぬことにいちいち心が泡立つ。
どちらかに過重するという意味ではなく、すでに
生きている、という時点で生きるのを選択しているのだから、
どちらかといえば、
「できるだけ死なないで、精一杯生きよう」側にいる。
未だに体にも心にもちっとも入ってこないハロウィンが過ぎると
11月はとてもしずかだ。
エネルギーが足りないと超えられないような12月に向けて
力を溜めているような、
そんな情けない自分もふくめて俯瞰で観ているような、
喩えがたいひと月である。
こういうとき、鋭く生死のことは迫ってくる。
毎年大晦日あたりの新聞には、当年逝去した有名人の名まえが
暦の古いほうから整頓されてならぶ。
大掃除などをしながらあれを目にするとしみじみする。
年越しそばを啜りながら見てもしみじみする。
無論第九などを聴いたら悼むしかない。
しみじみすることが新聞社の狙いなのだから仕方ないけれど、
実はそういった回想は既に11月からはじまっている。
気候のせいかわからないが、
不思議と年末あたりにどどどっと有名人の訃報がつづくので、
ついつい件の年末の特集に、逝去の(鮮度)をかんじてしまう。
大変だめなことだ。
けれどもこれが生きている、という残酷さなのだろう。
写真はLANCOMEのアプソリュオレオコンセントレート。
生きてゆく途中にときどき水を撒く。
水遣りをするのも11月というのはふさわしい月だとおもう。
答案を埋めたら出てよい教室のあたたかさ知る夢の途中で
漕戸 もり
