ロシア文学といえば、母の蔵書をおもいだす。

わたしが10代半ばのころ実家を建て直した際に、

父と母はきっぱりと断捨離をした。

捨てても捨ててもあふれてくる品々に、

さいごはもうどうでもよくなったのだろう、

小学校で賞を取った子ども(つまりわたしや兄弟)の絵画や

リカちゃん人形やプラモデルや衣服や食器やよくわからない道具や

敷物や健康器具や着物(父は呉服屋だった)などが

トラックに積まれてゆくのを、

なぜか汚れを拭ってすっかり清潔になるような

清々とした気もちで眺めていたのをおもいだす。

どこに運ばれていったか知らないけれど、捨てたもののなかには

今のわたしなら絶対に譲ってもらっていただろう

レコード盤や書物も多くあった。

実際には大半が家庭用品のはずなのだが、レコードや本が紐で縛られて

トラック以外の車に乗せられていった光景は強烈に覚えている。

子どもながらに(父と母は気づいてないけれど業者さんは

これらの価値がわかっていてどこかでお金に換えるんだろう)などと

小生意気にも想像していた。

レコード盤には、アダモやプレスリー、シルヴィ・バルタン、

ミッシェル・ポルナレフ、マーヴィン・ゲイ、アート・ブレイキー、

オスカー・ピーターソン等々。

触れてはいけないような、どこか隠微なジャケットのものも多くあった。

書物は父と母の好みがさっくりと分かれていて、

出張が多かった父の蔵書は、飛行機や新幹線のなかで読めるような

文庫がほとんどで、北杜夫や安岡章太郎、鮎川哲也、佐野洋の作品が。

母の持ち物はほぼ翻訳もので、ドストエフスキーやパール・バック、

シェイクスピアや魯迅、エドワード・スペンサーの詩集もあった。

なかでもドストエフスキーは全集で揃っていて

「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「白痴」など、

面白半分で開くとタイトルそのものに叱られそうな小説が

細かな文字で綴られていた。

これもあれもそれも、今もしどこかでどなたかの元にあれば

買い戻したいけれど、叶わぬ願いだろう。

父も母もどころか、わたしも兄弟も目の前の断捨離に夢中だったのだ。

 

母から聞いたのか自分で拾い読みしたのか定かではないが、

いつのまに「カラマーゾフの兄弟」の

どことなくどろりとした湿度と暗さとわかりにくさを知っていた。

そして、そのわかりにくさを持ったまま大人になった。

わかりにくさがなんとなく(わかるかも)に近づいたのはたった一年前。

テレビで観たロシア文学者である亀山郁夫氏の解説が

あまりにも秀逸で、すとんとあらゆるが腑に落ちたのだった。

 

その亀山郁夫氏が作家の中村文則氏との対談で現在のコロナ禍を、

吐くと加害者、吸うと被害者、と述べられたそうだ。

ああそうだ、そうだなあ、と、これを聞いたとき

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」をおもいだした。

カラマーゾフの兄弟だけではなく、

わたしたちも、いや失礼、わたしも、どこへも逃れられないのだ。

 

 

   殺人と言ふのは喩え猟解禁    漕戸 もり