情報を後から追うことが多い。
テレビやラジオは録画か聴き逃しか利用しない。
ましてやYouTubeなど、日常的に数年前の番組を観ているので
乗り遅れているといわれればおっしゃるとおりなのだけど、
へえなにそれ?という立ち位置にいることは、
案外生活に負荷がなくそのうえたのしい。
仕事では最新の情報禍にいるので、
その反動がプライベートをゆるくさせているのだろう。
ということで、遅まきながら
急逝された安倍元首相へ向けた野田元首相の追悼文を読む。
評判の良い追悼文とはいったいどんなものなんだろうと、
ひとつ知っておきたかったのだ。
野田氏がどういう人物であるかとか、
野田氏が追悼文を読むことになった経緯だとかは、
みなさまご存知だとおもうのでここでは省く。
ついでに言えば追悼文全文も報道されていたので内容説明もしない。
あなたは闘う政治家でしたが、心優しい人でもありました。
見事な抽出力。
マスコミの侮れないところはここですよ。
マスコミというか、記者というか。
右も左もリベラルも多少はあるけれど
概ね右に倣えの日本のマスメディアなので、
どこにいたとしてもこの一文を見聞きしたとおもう。
国語の授業で、
(全文を読んで作者の言いたいことを30字以内で書きなさい)
と問われたら、自然に吸い寄せられるような一文だ。
エピソードや出来事は不要とは言わないし、
ましてや無駄でもないのだけれど、
全文よりも明確に安倍元首相を言い当てているようにみせるので、
(急逝後明らかになるその他の多さに
この一文は単なる美辞麗句になってしまうかもしれない)
感心するだけでなく、胸が熱くなる。
うっかりすると涙までこぼれる。
追悼文は十分に評価されているけれど、
それはこの一文を導き出す序章でしかないとさえおもう。
政治家のところを空欄にしてみると、
これはどのような追悼文にも使えるのだろうか。
あなたは闘う( )でしたが、心優しい人でもありました。
あなたは闘う闘牛士でしたが、心優しい人でもありました。
これでは当たり前すぎて良さが際立たない。
あなたは闘う現場監督でしたが、心優しい人でもありました。
会ったこともない監督の表情が浮かぶようだ。
でもその業界では既に使われていそうで新鮮味がない。
あなたは闘う母親でしたが、心優しい人でもありました。
おお。なんとなくぐっと胸に迫るようになってきた。
どのようなときにも使えるというわけではない。
これこそが感動を呼ぶ一文なのだった。
わたしも最期に、
闘う( )だったけど、心優しいひとでもあった、と
偲んでもらえるよう精一杯生きたいとおもうけれど、
そのまえに、ひとさまに
日々わたしが闘っていることに気づいてもらう必要がある。
かんがえれば考えるほど、
だれもわたしが闘っているのを知らないというのが、
いちばんの問題のような気がしてくるのだ。
漕戸 もり
