花束に関しては、送る側の(つまりわたしの)、
そうはいってもそこは譲れない、というものがある。
支払いはこちらなのだから、
店側としては注文通りの花束をつくるのは当然だろう。
だからこそ、お店の方といっしょに相談しなければならない。
そうしなければ、花束は自己満足の塊となってしまう。
花はきらいではない。
ただ、花より葉がすきなのだ。
「できるだけグリーンを多く使って欲しいのですが」
「それですと、華がない(まさに!)ですがよろしいでしょうか」
「変ですかねえ」
「お祝いですからね、すこし華やかなかんじにされたほうが映えるかと」
「グリーンどころか枝なんかも入れてとおもっていたのですが」
「個性的でわるくはありません。
ただ、大ぶりのお花も合わせるとかされたほうが、
お祝いにふさわしいかとおもいます」
店主はそう言うと、
冷蔵ケースにならべられた白鳥の頭のようなカサブランカを指した。
花も葉もやがて枯れそして散る。
けれども、最後まで尊厳を保つのは葉なんじゃないか、と
信じているところがある。
尊厳。
大きく出てみたがほかに思い当たる言葉がない。
けれども花屋の店主の言う通り、葉や枝には華がないのだった。
小さな頃。
ある日、道端に生えていた
犬の糞がついているかもしれないような葉っぱのような雑草を
たくさん引っこ抜いて束にしたものを、
牛乳の空き瓶に突っ込んで興に入っていると
母が「そんなみずぼらしいもの捨ててらっしゃい」と言った。
それでもわたしは捨てないで毎日毎日水を替え、緑を愛でた。
草は育ちはしないものの、それから暫く枯れないで
子どものわたしが飽きてしまうまでふくよかな緑でありつづけた。
そんな経験(母の「みずぼらしい」という言葉でさえ)が、
花より葉が好き、の裏づけになっているのかもしれない。
結局、お祝いの花束ということもあったので、
緑を基調としたなかに大輪の花をいれることに同意して、
約束の日に受け取りに行くと
それはそれは華やかな祝いの花束ができあがっていた。
花をいれることには同意したけれど、
花は出来るだけ匂いのないものを、とお願いをしていたので、
抱きしめると緑が香ばしい
植物の命をまるごと抱きしめているような花束となった。
お祝いに、
なによりお祝いを迎えたたいせつなひとに、
とても似合う花束だった。
秋の気配火を見るよりも明らかに 漕戸 もり
