秋の海はもうすでに冬の入口にあった。
そもそも冬の入口というのは、秋そのものをいうのかもしれない。
秋や春は冬の入口や出口でしかないとおもうと、
なんだか冬が一層重要な存在になってくる。
それならば、春は夏の入口で秋は夏の出口かと言われれば、
それはなんだか見当違いのような気がするから不思議である。
この日は、
凪いでいるけれどサーファーが期待できる予感の風が吹いていた。
水平線の向こう側は遠すぎてなにも見えない。
果てに山とか島とかそういうものがあれば、
天気に左右されてみられたりみられなかったりするから、
具合によってどことなく
今日はよくなかった、とか、最高だった、などという印象が
先行して残ってしまうのだけど、
此処にはいつなんどきも平等に、無い。
凪いでいる日本海はどことなくさびしいけれど、
これはこれである種のやさしさだとおもう。
パーキングエリアで買ったあたたかい珈琲で暖を取りながら
海へとつづく階段をのぼれば LOVE だった。
せっかくLOVEというのに、映画「ジョーズ」をおもいだしていた。
もう簡単に感動なんてできない。
歳を重ねるというのは悲しいけれどそうゆうことだ。
YESだったらなぁ、とぼんやりおもう。
ジョンがヨーコに惹かれたきっかけとなったヨーコの作品「天井の絵」。
そのときのジョンの衝撃は想像するしかないけれど、
いつおもっても鳥肌が立つ。
結局YESをさがしながら生きているような人生なんだろう。
まあでも、NOじゃないからよかったとしよう。
それにしてもLOVEって、
いつからこんなうさんくさいものに成り下がってしまったのか。
声に出して言うと怪しい。
歌や句や小説のなかで見かけるとますます怪しい。
(敢えて残念感を出したい場合は別です)
なんでかなぁ。
そこにはジョーズしか合わない気がするんです。
酔い止めのひとつぶに従うやうな三半規管でもの思うなり
漕戸 もり
