敬愛してやまない山本文緒さんの新刊「無人島のふたり」。
わたしのような頭の悪い人間にもわかりやすい言葉で、
短編も長編もぐいぐいと引き込ませる力を持っている山本さんの
余命宣告を受けてから最期までの日記。
発刊されてすぐに購入したのだけれど袋に入ったままだった。
買っておいてなんだが、これを読むことは
山本さんがお亡くなりになったことを認めるような気がして、
毎日毎日眺めるばかりだった。
けれど、
明日から今月末迄立て込んでいて読書の時間が取れなさそうなので、
おもいきってページを捲りだした。
小説のような絵空じゃないできごとが、
親しみやすい文章でそれでいて吸引力も衰えない文筆力で、
どんどん現実になってゆく。
今日は山本さんの才能を恨めしくおもう。
やわらかい中心を守っているような硬いガードが、
べりべりと剝がれるような喪失をかんじながら、
いちファンとしてつまらない礼儀のように、
一文字も一文字もとりこぼさないように読みすすめると、
最後に待っているのは充足ではなく、ぬるい疲労と諦めだった。
心をうごかすということを
一絡げに感動と言ってしまえばどんなに楽だろう。
創作は感動をよぶけれど、文章が巧みであればあるほど、
現実(フィクション)は容易に感動を超えてくる。
それは作者の差し出しているものが違うからだ。
体を張っているかどうか。血が滲むのがみえるかどうか。
創作に、特に短歌や俳句のような雅(みやび)とおもわれがちな文芸に、
感動以上の揺り動かしというのは果たして可能なのだろうか。
想像どおりの優れた随筆だったので、いつのまに胸をさすっていた。
心というのは心臓のあたりにある、という刷り込みのせいだ。
撫でても撫でても、痛みは減らないで
いつまでも感動を超えた感情は止まない。
それは良い悪いで言ったら圧倒的に悪い。
けれどなんども言うようだけど、感動を超えた只中にいるのである。
水匂ふ毛布で包む無人島 漕戸 もり
