おなじ世代に生きていてよかった、とおもえる人がいる。
その前に、同じ世代に生きていたら、とおもう人もいる。
例えば…
清少納言、紫式部。これは怖いもの見たさというのもある。
いきなり時代は飛ぶけれど、動いている森鴎外、夏目漱石は拝見したかった。
文学以外でも、なま白洲次郎がお昼のテレビに出演しているのとか、
連合赤軍が立てこもっているのをテレビでみたかった。
でも、それがなかったおかげで培ったイマジネーションもある。
想像力を働かせてあれこれ空想するのは、
学びにも遊びにもどちらの回路にも通じるめずらしい「自由」だ。
 
わたしが死ぬときに、なにを根拠に「ああよかった」とおもうかは、
今を30分も過ぎれば答えが変わるかもしれないデリケートな質問だけれど、
少なくとも今現在の時点で、会えてよかった芸術家(作家や芸能人などもふくむ)、
或いは彼らにつくりだされた作品やもの(店)を挙げてみる。
 
森瑤子。向田邦子。財津和夫。高橋源一郎。加賀美幸子。吉本ばなな。小田和正。
村上春樹(僕この位置かよって怒られそう)。タイムマシーン3号。寺山修司。
ミスタードーナツ。おかしのまちおか。サイゼリア。ビートルズ。アバ。小さな恋のメロディ。
角川映画(お騒がせ中の企業ではありますが)。。。。きりがないからやめておきます。
 
おかしのまちおかが出てきたところから、同じ時代に存在してくれてありがとう、
という感謝の気持ちになってしまった。
そして、最初は文学や音楽などの芸術家から考えていくのに、やがて食べるものになって、
そういえば、と海外にも目を向けてから、最近よく見かけるKADOKAWAに戻ってきたという、
わたしの底浅さをを暴露してしまったようだ。
さきほど帰り道の車の中のテレビで、かつてないほどの大型台風
(このフレーズ、毎年聞いているような)で、浸水した土間で途方に暮れているお年寄りや、
鉄塔や木がなぎ倒され通行止めになった道路で、立ち往生している住民たちを観ていたけれど、
「同じ時代に存在してくれてよかった」とおもえるひとやものはこのようなとき、無力である。
こんなことは、既に震災復興がとりあげられるたびに、擦り切れるほど議論され
今もまだつづいている。
このようなときは無力でも、あのようなときはとても力を持つ。
人生はこのようなときだけではない。交代であのようなときが来て、
あのようなときもやがて終わり、またこのようなときになる。
それを知っているから、ありがとうが自然にふえてゆく。
今わたしは(あのようなとき)にいる。
 
マイケル・ジャクソンが亡くなったのは衝撃だった。
先日もひさしぶりに「THIS IS IT]を観た。
マイケルのどこを切り取っても好きでしかない。
生きているマイケル・ジャクソンを観られた経験は
消えないでありがとうとして残りつづける。
一世紀ずれていたら想像するしかなかったマイケル。
だとしたら、好きにはならなかったかもとおもえる唯一のひとである。
 
  永遠を甘く見ないで曼殊沙華   漕戸 もり