暑い。

ぴたりと風がやんでしまうと、いとも簡単に夏に引き戻される九月半ば。

夏から秋への変わり目に、日本には初秋や晩夏といったうつくしい言葉があるのに、

そのどちらにもしっくりこないで、名のない橋をただうだりながら歩いているような毎日である。

バングラデシュやインドなどは香辛料や果物で暑さをしのぐと言われているが、

南国でうまい果実が豊富に実るのは、体を冷やす果物が必須だからに違いない。

内から冷やすと知っていても、氷いちごやメロン氷みたいに

パンチのある冷たさは体感できないので、せめて喉を潤すように果物をたべている。

ここ数年は、実りの秋だというのに挨拶代わりに

「天候不順の影響で甘味がない」だとか、

「多雨、或いは雨不足のため価格高騰している」と、

農作物のことを言い合うのが定番になってしまった。

だから、果物を買うときはとても慎重。

手の込んだショートケーキを買うように、五感を研ぎ澄ます。

ケーキを選ぶときには、手で持ち上げ匂いを嗅いだり、クリームやスポンジの重さを測ったりしないように、果物もできるだけ手で触れないで品定めをする。

これはコロナ禍だからというのではなく、高価な果物に触れてみて、そして目にかなわなければ元の位置にお返しするという所作が、たまらなく卑しくおもえるからだ。

どんなに上品なファッションで買い物をしようとも、目の前で果物(野菜でもお肉のパックでもそうだけど)にさわりまくっている方を見ると、心底がっかりしてしまう。

ひとは社会生活を送るとき、欲望をあまり見せないほうが感じがいいことを知っているけれど、

欲望は公然の場などでうっかりこぼれてしまうことがある。

そして、おもいもかけず滴り落ちた欲望は、その中でもいちばん小汚いもののような気がする。

 

この夏は、いつになく果物が高かった。特に国産のりんごはしばらくの間店頭から消えていた。

りんごにわざわざ国産、と付けたのは、売るりんごがないりんご売り場の穴埋めをするように、

プルーンを一回り大きくしたような、ちいさなカナダ産りんごが売られていたからだ。

外国産のりんごはそのあいだ、我が家の果物リストに加わった。

外国産のりんごを食べるのは、海外旅行先の飲食や国内での外食は別として、買って食べるのはまさに初めてで、個人的には酸っぱさと硬さも慣れれば爽やかで好ましいと感じていたのだが、

家人は「もうあれは出さないで欲しい」と途中で音をあげた。

おなじりんごでも、こんなふうに好かれたり嫌われたり忙しい。

 

写真はまだまだ高価な梨。

なんとひとつ500円也。

高いから甘いとおもったら、高いけど酸っぱいだった。

しゃりしゃりと、梨を水代わりに食べつつ、体の内からも外側からも酸い残暑はまだまだつづく。

追記

家人は桃の皮の毛(どれ?)が、喉に刺さったと騒ぐ偽おぼっちゃまなので論外だけど、

わたしは自分の分だけは皮つきでたべます。(ウサギさんリンゴの耳のないバージョン)

高価な梨は皮もたべられます。

お試しあれ。

 

    さつぱりと別れた記憶梨のみづ  漕戸 もり