わたしの仕事場兼寝室の電灯をリモコンでONOFF出来るようにした。

これがめっぽう具合がいい。

気分転換のつもりでベッドに寝転ぶ。

書き物をしたり、アマゾンプライムで映画を観たり、本を読んだりする。

でもこれは、あくまで気分をリフレッシュさせて再び机に戻るためのもののはずなのに、

その半分は睡眠に入る前の儀式である。

「あ、あ、灯りをどなたか消してはくれんじゃろうか」と恨めしくつぶやいても、

どなたもいないので、スイッチまでのたった2mほどの距離を這うようにゆく日夜。

こんな喜劇にも似た徒労をほぼ毎日習慣としていたのに、

なぜもっと早くリモコンにしなかったのかと呆れるだろう。

リモコンにするのが面倒だからでも、

リモコンに替える取り付け作業が大変だからでも、高価だからでもない。

体も心も退化するようで拒絶していたのだった。

スイッチまでのたった2mを克服できなければ人間終りよね、

くらいの誇り高さを自分では持っているつもりでいた。

 

今からちょうど一年ほど前、家人が西側にある彼の部屋の電灯の点灯をリモコンに替えた。

半分を占めるのがダブルベッドという部屋なので、部屋に入ると机の前に座るというより、

まずベッドでくつろぐのが定番らしい。

なので、それなりに過ごしやすく整えている気配が漂う。

シーツを替えるたびに捨てたくなる数多のクッション類は、こだわりの最たるもの。

なんと枕のほかに4つもある!

となると、眠る前の儀式やスイッチまでの這うような思いも

(ベッドからスイッチまでの距離もわたしの部屋より遠い)わたし以上に切実だったようだ。

ある日、いつになく神妙な様子で

「リモコンにしようとおもう」と打ち明けられた。

いやそりやぁそうよ、わたしだってなんどそれを夢見たことか、と言いたいのをこらえた。

丁寧に退化の話をして「そこはさいごの砦だとおもうけど」と反対の気持をあらわした。

 

とはいえ当然のごとく…

 

数日後、リモコンの付け替え工事をした家人の、勝ち誇った顔をお見せしたい。

「人生は捨てたものじゃないね」中年男子はしみじみと語った。

ほんのすこしの勇気とやる気と行動力があれば、

簡単に手に入るすばらしい快適が、まだまだ存在するということを。

それ以来、家人はよく腹の上に書籍や新聞などを載せたまま眠るようになった。

これがどんなに至極なのかということをとうとうと語る目は、心なしかうるんでいるようにみえる。

なによりも、電灯を消すために体を起こさなくていいのだ。

手元にあるリモコンは、退化のスイッチでもある。

それなのに。

いつのまにかわたしを、物わかりの悪いかわいそうなひとだ、などと気の毒がり、

ひかり輝く(ようにみえる)点灯スイッチを目の前でひらひらさせながら

「おやすみ」と自室へ消えるのだった。

 

そして今、わたしも遂に踏み出してしまった。

こうして敗北感とともに点灯リモコンを手に入れ、

わたしはかわいそうなひとから、ただの意地っ張りに昇進した。

意地っ張りなのだから、「退化と引き換えだけれどね」などと悪態をつきながら。

 

写真は官製はがき。

こちらのスイッチにはリモコンはいらない。

なぜなら、絶えずONにしていなければならないからだ。

短歌と俳句はフルモードである。

 

 

 鍵のない部屋にそれぞれ還りゆく猫といふ名の夜行き来する  漕戸 もり