毎日を(ふむふむ)と思いながら過ぎてゆく。
(ふむふむ)というのは、頷くことを擬態化したことばなので、
昨日より今日今日より明日というように思考も知恵も進化していなければならないはずなのだが、
これが最近そうでもないことに気づいた。
(ふむふむ)のなかには、ただ頷くだけでそっぽを向いているような気配がある。
それになんだかふざけている。
上司やクライアントの話を聞くときに、(ふむふむ)はいただけない。というか絶対だめだ。
上から目線のようでもあるし、どうも真剣に耳を傾けていないのだ。
この不真面目さが、(ふむふむ)と頷く日々であっても、頭がどうかならないで生き延びていられる理由なのだろう。
だからといって、決して毎日を適当に過ごしているのではない。
(ふむふむ)と思いながらメモをすることもあるし、この言葉自体に大した意味もないとわかっていて、ひとり「ふむふむ」と声に出すこともある。
声といえば、会話のなかにも「ふむふむ」は普通に登場して、わりと友愛を深めたりする場合もあるのだから、ないがしろにしてはならない。
どんなに厳格な由緒ただしいご家庭で育ったひとでも、(ふむふむ)と心の中で頷いたことはあるだろう。
息を吸って~吐いて~ふむふむ~
これくらい(ふむふむ)というのは実は大切な擬態語だった。
つぎからつぎへと、かんがえさせられることというのは、宇宙規模のものから個人レベルのものまで実に惜しみない。もってけどろぼー状態である。
コロナも戦争もちっとも止む様子はなく、(ふむふむ)ともう何に対して頷いているのかわからなくなってきた。安倍元首相の国葬の是非のように、(ふむふむ)と簡単に頷いてはいけないようなことすらある。
写真は(相変わらず逆さになっても直せないままだ)仕事のために購読している雑誌。
変わる は小さく黒文字で控えめに書かれているということは、変わらないかも?をふくむかもしれないが、赤文字の 相続 というのと ダメ というのには思わずぎょっとした。
(ふむふむ)と呑気に聞いてることではないような殺気が漲っている。
コロナも戦争も心を痛める問題ではあるという前提で言えば、どちらかというとこちらのほうが大問題のような気がしてならない。
わたしは間違っているのだろうか。
よく考えてみると、重要な話を聞く場面でひとは、ただただ無言のことが多いような気がする。
頷くため体を揺らすこともなく、聞く或いは知ることが、できれば少ない毎日がいい。
(ふむふむ)と、横を向いて頷くくらいの事柄がある毎日を平和と呼ぶのなら、それが平凡であれそのような日々を過ごしたいと思う。
予め傷みせておく九月かな 漕戸 もり
新学期、息を吸って~吐いて~ふむふむ~
あなたが存在する場所ではなく、あなたが存在することがたいせつ。
