中日短歌会の歌人南真理子さんから、著書「声がきこえる 家族集」(東京法規出版社)をいただいたので、てっきり歌集だと思って開くと、ご家族の写真や絵画を冒頭にそれはそれは壮大な家族史であった。
ご自身の短歌も掲載なさっていたが、書籍のほんのわずかの紙面を割いただけの奥ゆかしさで、南さんの家族想いなお心持をうかがい知るようだった。
家族史や自伝を書籍に残すということは時折耳にするが、この本はすこし趣きが異なる。
中心にお母様を置き、まずお母様がそしてお母様のご兄弟やお子様(南さんもふくまれる)お孫様がお母様に呼応するように言葉(短歌その他もふくめて)を載せてゆくスタイルである。
なので、著者南真理子と記されているのだが、著者というよりもプロデューサーというほうがしっくりくる。まあでもそんな些細なことに家族のだれも関心などない。
とにかく、ご家族様から親しまれ愛されていたお母様だったことが(既に逝去されているのでもしかして不謹慎だと言われてしまうかもしれないが)どのご家族の文面からも溢れてくるので、読み終えた今でも体の芯がどことなく温かい。
ふと、家族愛などというものは、いったい何を基準に定めればいいのかだれにも教わらず過ごしてきたのだと気づく。もし育った実家にその基準とやらがあるのなら、血の繋がりのない家人とは、よっぽど同じような環境に育っていないと「痒いところに手が届く」なんていうことは、なるほど今生では難しいだろう。
この家族集も、著者の生家側の物語でありながら父の話は母より後に述べられ(もちろんこちらも愛溢れることに相違ないが)、嫁ぎ先の、たとえば夫なるひとの登場回数はほんの僅かである。
その根底に、著者のクリスチャンとして慎み深さ、或いは賢明さがあるのだと推測をすると飛躍しすぎであろうか。
 
家族集のなかに控えめに咲く小花のような著者の短歌をいくつか挙げてみる。
 
  万葉の本とアルバム詰め込める叔母のピンクのトランク重し   p28
  念仏を唱ふるごとく蝉の鳴き種を残してあさがほの枯る     p215
  さすれども摩れども手足こはばりて湯桶に絞るタオル空しき   p220
  生きあるを香油で額に十字きる神父に思はず我さからへり(終油の秘跡)  p221
 
著者のお母様を軸とした温かな家族集と説明したが、書籍の短歌を締めくくるのは著者のお嬢様(亜姫様)の短歌だ。
 
  今日も母はひとつのことに夢中なり家の中では母もまた人    p243
 
「家族愛」らしきものが、もうすでに受け継がれはじめていることを予感させているのは、家族集を結ぶのにふさわしい。
と、言いきってしまうと南さんがいかに策士かを強調してしまうようなので、敢えて追記させていただきたいのだが、ご本人は小津安二郎監督の映画に出てきても何ら不思議ではないような清楚なご婦人で、策士の持つイメージからは遥か遠くに存在する印象の持ち主である。いわゆる聖母マリアのようだ、と言えばまたそれはそれで逞しき策士に反転してしまうのやもしれないが、マリアと言っても異議を申し立てる者はいないだろう。
いずれにしても人はおしなべて母から生まれ、母は偉大だということである。
 
そういえばこのわたしも母であったニコニコ
サザエさんも母であった真顔
誠にありがたいことである。