音楽はジャズやアメリカンロックを聴くことが多いが、
聴くために流すというより、作業中の潤滑油みたいに流しておくので、
正確に言うと「聴く」のではないのかもしれない。
歌詞のない音楽や、いまひとつ読解力があやしい英語の歌詞の付いた音楽だと、
作業の邪魔になりにくいので、ここ数年はずっとこのスタイルを貫いている。
邦楽の「歌詞」はどうしても作業の妨げになりがちだ。
短歌や俳句を嗜んでいるので、言葉に対して敏感になっているのだろうし、
本業では、言葉を「喋る」仕事をしているので、
音楽にのって日本語が聴こえてくると、
言葉のほうへ意識が傾いてしまい、目の前のことに集中できなくなる。
これが徐々にJpopsを遠ざけるようになった大きな理由のようにおもう。
反対に家人はJpopsだろうが、野球中継だろうが、ラジオだろうが
日本語が洪水のようにあふれている傍ら、平然と本や新聞を読んだりしているのだから
おそらくこういう能力には個人差があるのだろう。
なんだか損している気分![]()
とはいえ。
そういう理由だからこそ、Jpopsに心を奪われる曲がいくつかある。
少し前だと髭ダンディズムなんかは、ヘビロテし過ぎて頭がとけそうだった。
もちろん歌詞は大切だけど、歌詞は心に滑りこんできやすいメロディーと
出会わないかぎり、単なる音階をつたえる記号になりがちだ。
ことばを劇的につたえるふさわしいメロディーが、奇跡のように髭ダンにはあった。
(当時の髭ダン、と書こうとしてやめました。
祈るように、まだまだあの奇跡がつづくようにと願います
)
作曲家の上田知華さんが逝去された。
ネットニュースで懐かしい名前を見かけたので、
新曲でも出されるのか、とつづきを読みすすめると訃報だった。
レコード会社のプロモーターさんから、
見本としていただいたCDを聴いて以来、
ずいぶん長いあいだ毎日聴いていた季節があった。
上田さんの作る音楽にも、歌詞(作詞家さんと組まれることも多かったようにおもう)
を歌詞以上にドラマチックにして、聴き手に届ける力があった。
一枚のCDを聴き終えると何本もの映画を観たあとのように、
毎回放心状態になったものだ。
「半袖」という名曲がある。
たまたま頂いた今井美樹さんのアルバムに入っていて、
この曲が流れてきたときの感覚は今でもおぼえている。
羽音のように、というと大袈裟かな、なにかたいせつなものにふれるような感傷で、
音楽が流れてきた瞬間から、息をつめるように聴きいった。
クレジットをみると作曲は上田知華さんだった。
もちろん名曲は、作曲家だけでは生まれない。
作詞家、編曲家、歌手、その他諸々の要因がちょうどいい塩梅で
合わさったものをいうのだろう。
でも、言葉をふんわりとのせた音譜はまるで、
もう絵の具にはもどれない絵画のようにかんじた。
この曲の歌詞は、教訓めいたことはひとつも言っていない。
淡々とせつない恋を呟いているにすぎないのだけれど、
空や風やなぜか柔軟剤のほのかな香りまで、
音譜が届けてくるあの質感には、ほんとうにびっくりした。
もう上田さんが、あたらしい曲をつくることがないとおもうと残念でならない。
ひさしぶりに「半袖」を聴いている。
こうやってこれからもたいせつに聴いていこう。
なにかの作業の傍らではなくて、聴くために耳を傾ける。
オキザリスかみさまの手が埋めてゆく
漕戸 もり