あるヒトの、ブログを読んでいて偶然、永山則夫事件について目にする事があった。

永山事件とは、あまりにも有名でご存知の方もおられると思いますが、いかんせん、古い話にもなりますので、概略をば。

昭和43年10月:東京タワー近くのホテルでガードマンが射殺される。
        真夜中に男がホテルの非常階段を下りてくるのを、ガードマンが発見。不審に思い、声 
        をかけてところ、いきなりピストルで頭を撃たれた。意識不明のまま10時間後に死亡。

上記から3日後:京都の八坂神社で巡回中の警備員が銃殺され、3時間半後に死亡。「17、8の子どもや」
        という証言あり。

上記から12日後:函館でタクシー強盗があり、運転手は意識不明のまま死亡。

 ※連続ピストル射殺一〇八号事件として大きく報道された。

昭和43年11月:名古屋で同様にタクシー運転手が射殺される。

昭和44年春:東京渋谷でビジネススクールを警備中のガードマンが盗みの男を発見。格闘の末、ピストル
       3発を発射して逃走したが、緊急配備中のパトカーにより犯人は逮捕された。ガードマン 
       はかすり傷だけであった。

この犯人が、かの有名な永山則夫、当時19歳。
事件から22年目、永山は最高裁で死刑が確定した。

獄中では、「無知の涙」などの小説を書き、獄中結婚、離婚もあったらしい。
その永山が、平成2年に日本文芸家協会に入会申し込みをしたらしい。
が、理事会は、入会拒否を決めた。

一方で、自衛隊に乱入して多くのヒトに傷を負わせて自害した三島由紀夫は除名されていないのである。

あたしは、「無知の涙」を読んだわけではないので、内容の如何を問う事は出来ないが、何かすっきりしないものを感じる。

永山は、獄中で生活するうちに、色々な思いがあって改心もしたかもしれない。
現に、死刑前の永山は穏やかな顔をしていたらしい。

もちろん、犯した罪が消えてなくなるわけではないが、天命尽きるまで生きて罪を償う。
そういう道も選択肢としてあり得たのではないだろうか。
何人を、○○目的で殺人したから死刑。では、あまりにも短絡過ぎないだろうか?
もちろん、殺された人の家族の方々にとっては憎き犯人であろう。
しかし、ここで憎いからと言って死刑を望んでしまっては、殺人犯と何ら変わりない・・と言ったら言い過ぎかもしれないが、のではないかと感じるのである。

最近の、無差別殺人にも見られるように楽になりたいから、殺人を犯した。楽になりたいから、早く死刑にしてくれ。これでは、犯人の目論見通りである。
一瞬の死刑の恐怖より、天命尽きるまで生きて罪を償う方がどんなに辛い事だろうか。
改心したヒトへの、生きるチャンスも含め、以上の事よりあたしは死刑反対である。
生きて償え。
これが、あたしの罪人への想いである。

永山が例え死刑確定だとしても、日本文芸家協会へ入会するチャンスは他人と等しかったのではなかろうか?罪人がダメだと言うならば、三島由紀夫も除名すべきであろう。
こういう矛盾が、あたしは嫌いである。
生きている人間も、死んだ人間も、人権は等しいのではないだろうか。