「友達は多い方がいい」http://blogs.yahoo.co.jp/happyhappyfumi/2515568.html で、いろいろ書いてから、しばらく考えていたけど、今までのところ感じたこと。
「自分の好きな自分になろう」
今回、いろいろ教えてもらった友達の考えも取り入れて。
無理をすることは、やっぱり自然ではいられないから。
なんだか、最近、特にこんな風に考える。
「全部を自分の視点で見るべき」
反語的な意味で、自己中心的になるということ。
一般的に言われる、相手の立場に立って考えなさい、ということは、「短期的視点で、目先の利益に惑わされた行動を取ると、長期的には自分のためにならないよ。」ってことだと理解している。
つまり、最終的には自分のことを考えるということ。
どんな自分でありたいのか、どんな自分なら満足かということを突き詰めると、僕はきっと、いろんな人に優しくできると思う。だって、何が起きても、自分の責任で、自分の責任だからこそ自分でどうにかできるはずだから。
というわけで、きっと、僕はこれからも自分が一緒にいて楽しい空間や人だけを選ぶんじゃないかと思う。ただし、もちろん、「ほどほど」に中庸を守って。この前友達に言われたように、友達を増やす努力も、自分なりにすると思う。
何にも答えが出ていないように聞こえるかも知れないけど、これだけ考えて答えのでないものは、きっとシンプルな答えはないんだと思う。だとすると、答えがないものを考え続けるよりは、行動を起こして試行錯誤した方が生産的。
でも、やっぱり、これはしばらく、僕のテーマになりそうだなぁ。
最後に、吉野弘さんの、「雪の日に」という詩。
昔からこの詩が好きで、あるときは悲しかったけど、でも、今は、こんな風に考えてます。
きっと、問題は「誠実かどうか」の判断基準が難しいというところ。
個人の評価が、100%他人の評価によって決まるんだとすれば、他人から見た自分がどういう人間でありたいかを考えて、自分の欲求に従えばいいと思う。
ここでは、誠実でありたいと考える自分の気持ちが大切で、他の人からそう評価されたいと考えていて、でも、他の人の気持ちが分からない以上、自分が誠実なのかどうかも分からなくなる。
でも一方で、誠実でありたいと考える自分の気持ちが大切。そうである限り、誠実なんだと思う。
だから、この詩の中での、「降り重なった雪」が「誠実な人間の、誠実さの深さ」なんじゃないかなぁ、と思う。
あぁ、言葉足らず。分かりにくいな。
以下に詩を引用しようと思って、著作権上問題があったりするのかな?と、念のため調べてみたけど、Wikipediaによると、以下のとおりらしいので、まぁ、大丈夫そうかな。問題あれば削除します。
「まず断っておかないといけないのは、引用と流用は違うということです。これは、ネット以外の出版の分野でもたまに争いになる点なのではっきりさせておかないといけません。引用というのは、端的に言えば自分の著作(例えば詩の評論文)を展開するために他人の著作物(この例なら、詩)を参照するなどのことで、日本の国内法ではまったく正当な行為です。相手の許諾を得る必要もありません。ただし、引用が引用であるためにはいくつか条件があります。(以下省略)」
というわけで、以下、吉野弘さんの「雪の日に」です。
雪の日に
--誠実でありたい。
そんなねがいを
どこから手に入れた。
それは すでに
欺くことでしかないのに。
それが突然わかってしまった雪の
かなしみの上に 新しい雪が ひたひたと
かさなっている。
雪は 一度 世界を包んでしまうと
そのあと 限りなく降りつづけねばならない。
純白をあとからあとからかさねてゆかないと
雪のよごれをかくすことが出来ないのだ。
誠実が 誠実を
どうしたら欺かないでいることが出来るか
それが もはや
誠実の手には負えなくなってしまったかのように
雪は今日も降っている。
雪の上に雪が
その上から雪が
たとえようのない重さで
ひたひたと かさねられてゆく。
かさなってゆく。
「自分の好きな自分になろう」
今回、いろいろ教えてもらった友達の考えも取り入れて。
無理をすることは、やっぱり自然ではいられないから。
なんだか、最近、特にこんな風に考える。
「全部を自分の視点で見るべき」
反語的な意味で、自己中心的になるということ。
一般的に言われる、相手の立場に立って考えなさい、ということは、「短期的視点で、目先の利益に惑わされた行動を取ると、長期的には自分のためにならないよ。」ってことだと理解している。
つまり、最終的には自分のことを考えるということ。
どんな自分でありたいのか、どんな自分なら満足かということを突き詰めると、僕はきっと、いろんな人に優しくできると思う。だって、何が起きても、自分の責任で、自分の責任だからこそ自分でどうにかできるはずだから。
というわけで、きっと、僕はこれからも自分が一緒にいて楽しい空間や人だけを選ぶんじゃないかと思う。ただし、もちろん、「ほどほど」に中庸を守って。この前友達に言われたように、友達を増やす努力も、自分なりにすると思う。
何にも答えが出ていないように聞こえるかも知れないけど、これだけ考えて答えのでないものは、きっとシンプルな答えはないんだと思う。だとすると、答えがないものを考え続けるよりは、行動を起こして試行錯誤した方が生産的。
でも、やっぱり、これはしばらく、僕のテーマになりそうだなぁ。
最後に、吉野弘さんの、「雪の日に」という詩。
昔からこの詩が好きで、あるときは悲しかったけど、でも、今は、こんな風に考えてます。
きっと、問題は「誠実かどうか」の判断基準が難しいというところ。
個人の評価が、100%他人の評価によって決まるんだとすれば、他人から見た自分がどういう人間でありたいかを考えて、自分の欲求に従えばいいと思う。
ここでは、誠実でありたいと考える自分の気持ちが大切で、他の人からそう評価されたいと考えていて、でも、他の人の気持ちが分からない以上、自分が誠実なのかどうかも分からなくなる。
でも一方で、誠実でありたいと考える自分の気持ちが大切。そうである限り、誠実なんだと思う。
だから、この詩の中での、「降り重なった雪」が「誠実な人間の、誠実さの深さ」なんじゃないかなぁ、と思う。
あぁ、言葉足らず。分かりにくいな。
以下に詩を引用しようと思って、著作権上問題があったりするのかな?と、念のため調べてみたけど、Wikipediaによると、以下のとおりらしいので、まぁ、大丈夫そうかな。問題あれば削除します。
「まず断っておかないといけないのは、引用と流用は違うということです。これは、ネット以外の出版の分野でもたまに争いになる点なのではっきりさせておかないといけません。引用というのは、端的に言えば自分の著作(例えば詩の評論文)を展開するために他人の著作物(この例なら、詩)を参照するなどのことで、日本の国内法ではまったく正当な行為です。相手の許諾を得る必要もありません。ただし、引用が引用であるためにはいくつか条件があります。(以下省略)」
というわけで、以下、吉野弘さんの「雪の日に」です。
雪の日に
--誠実でありたい。
そんなねがいを
どこから手に入れた。
それは すでに
欺くことでしかないのに。
それが突然わかってしまった雪の
かなしみの上に 新しい雪が ひたひたと
かさなっている。
雪は 一度 世界を包んでしまうと
そのあと 限りなく降りつづけねばならない。
純白をあとからあとからかさねてゆかないと
雪のよごれをかくすことが出来ないのだ。
誠実が 誠実を
どうしたら欺かないでいることが出来るか
それが もはや
誠実の手には負えなくなってしまったかのように
雪は今日も降っている。
雪の上に雪が
その上から雪が
たとえようのない重さで
ひたひたと かさねられてゆく。
かさなってゆく。