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ゆう@子育てパパ


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■プロ19年、応援に感謝



 「富山の代表という意識で戦ってきた」。射水市(小杉)出身で今季限りの現役引退を表明したJ1ベガルタ仙台の柳沢敦選手(37)。4日、チーム本拠地がある仙台市で記者会見し、声援を送り続けた地元富山のファンに感謝し「ぜひまた富山から新しいサッカー選手がどんどん出てこられるように祈っている」と県サッカー界に期待を込めた。



 「プロの選手としての大きな決断と理解し、尊重してもらいたい」。柳沢選手は会見で日焼けした顔に時折笑みを見せて、19年間のプロ生活を振り返り、ゆっくりと落ち着いた口調で語った。



 プロ入りと同時に旧小杉町の住民有志らで結成された「柳沢敦応援クラブ」など、活躍をずっと見守ってきたのが県内ファン。「『応援クラブ』の方をはじめ、本当にたくさん応援してくれる人がいるのは十分分かっていたし『富山の代表としてJリーグで戦っているんだ』という意識を持ってやってきた。良い時も悪い時も富山の代表だった」と古里への思いを語った。



 その上で「悲しい思いをさせたこともあったかもしれないが、『富山からでも19年できる選手が出てくる』という自信を与えられたと思う」ときっぱり。「カターレ(富山)というクラブがありながら、たくさん応援していただいた」と話した。



 引退の決断に悔いはないかと問われ、「はい」ときっぱり答えた柳沢選手。今後について「サッカー界に貢献できればと思っている。引き続き応援してほしい」と力を込めた。



■恩師・ファン 労ねぎらう 

 強烈な輝きで県サッカー界を照らし続けた柳沢選手。父の昭行さん(66)=射水市黒河新・小杉=には、けがを抱えながらの現役続行に「限界を感じた」と理由を説明したという。昭行さんは「常に上を目指して努力していた。考え抜いた末の決断だろう」と受け止め、本人同様に「家族を含めて励ましてもらった」と県民への感謝を口にした。



 富山第一高時代の監督、長峰俊之さん(61)=富山市茶屋町=は初めて見た中学2年時のプレーが忘れられない。「中学生とは思えないレベルだった」。ゴール前でシュートではなくパスを選択して批判されることもあったが「自分よりいい位置の選手を生かす、という高校時代の教えをプロでも守り、周囲の信頼を得て長く続けることができた。まだ現役でいてほしかった」と率直な胸の内を語った。



 地元・黒河地区や県内外のファンでつくる応援クラブの稲垣浩会長(67)=射水市黒河・小杉=は「会員はわが子のように応援し、生きる勇気をもらった」と声を詰まらせた。富山第一で主将を務めるMF西村拓真君(18)は、11日からベガルタ仙台の練習に参加する。プロを目指す西村君にとって柳沢選手は憧れの存在。「自分も世界で活躍し、先輩を超える存在になりたい」と話した。



■時代象徴する点取り屋証明

 豪快なゴールよりは、おとりになってスペースをつくる動きや前線からの効果的な守備など組織の中で輝くプレーが印象に残る。柳沢選手は個人の身体能力では劣る日本が、組織と技術で世界に飛躍した時代を象徴するストライカーの一人だった。



 同時期の日本代表には中田英(引退)、小野、中村ら中盤の好選手がそろった。だが、彼らの活躍もDFのマークを外し、巧みにパスを引き出す柳沢選手の働きがあればこそ。2001年11月のイタリアとの国際親善試合(埼玉スタジアム)で稲本選手のボール奪取から生まれた柳沢選手のボレーシュートは、当時の代表の「粋」が詰まったベストゴールだった。



 約2年半のイタリア1部リーグ(セリエA)挑戦時は無得点で、06年W杯ドイツ大会のクロアチア戦で絶好機を外したシーンも苦い記憶として残る。2度のW杯の晴れ舞台ではゴールは挙げられなかった。「FWの仕事は点を取ることだけじゃない」との発言が独り歩きし「勝負どころに弱いFW」とのレッテルを貼られたこともある。



 それでもJ1で積み上げた得点は108。日本選手に限れば史上6番目で、何より数字が秀でた点取り屋だったことを証明する。





北日本新聞社