D12は、自然移植周期の、卵胞やら内膜やらの中間チェックの受診日でした。

 

鍼の先生にも「移植日まだ未確定で…もしかしたら中止もあり得ます…」と伝え、移植の同意書にお名前を書くオット氏に「ん?月末だっけ…?」とテキトーな感じに言われても、「(は?50回は言ったけど!?←気持ち的には。実質はせいぜい2回)……いや…次行ってみないと分からんのよ…。」とふんわりしたことしか言えないでいるつらみ……。

 

いや、私が聞きたいのですよ。

そもそも私排卵するの?

この薬で、内膜育つの?

 

いつもの、なんだか分からないけれど、自分の体なのに他人事、みたいな感覚は、まだなくならない。

そもそも増殖症の時から、出血量がえげつない以外の自覚症状なにもなかったし。(別の婦人科クリニックでのんびり経過観察中だったので、まさが自分がそんなことになってるとも思わず。)なんならMPAのおかげで余計に具合悪いという感じだったし……。

 

血液検査は見るからにヤバそうな技師の方に当たり、やはりヤバかったです。血管だけは褒められ女子(?)なのですが、針を皮膚の中で60度くらい曲げられました。大丈夫なのかそれ。結構痛いけど。(婦人科系の検査以外の痛みには割と強いため、シラっとした顔で乗り切りましたが)

 

ただ、今回、何の根拠もないけれど、なんか、なんかちょっとだけなんとか、いける気がする。

なんか卵巣とか内膜とか、頑張れる気がする。

……と思いながらの内診台。

「卵も小さくて…内膜もまだ………ちょっと薬を増やしていきましょうか。」

 

結局ゴナール様が50→75単位と1.5倍に増量になりました。仮の仮の仮、位で入れていた移植予定日は2日延期。

思わず「え?これは、あの、なんとかなりそうなレベル、なんでしょうか……」と気弱な質問をする私。

「来週の内診次第ですが、まだ全然(可能性は)ありですよ。来週末くらいまで育たなければ、リセットした方がいいかな、くらいです」と医師(今日も美人)。

 

それでは失礼します、と席を立とうとする時に、不安げな私の目を見て頷く医師。

医師(美人)「今日からゴナールF、75ですよ」

私(薄目)「(小さく頷く)75……75……」

医(美)「75、75(頷く)」

私(薄)「75(頷く)」

 

会計を待ちながら、「75ってもはや採卵ではないか」とふと思う。いや、採卵の時は300単位だったか……と考えていて、初めての採卵の日を思い出す。

 

低AMHで高齢なら低刺激がセオリーとインターネットでは書いてあるのに、「反応が鈍いのでしっかり刺激していきましょう」と、高刺激ショート法でゴナール300を重ねる治療に対し、猜疑心を抱きながら結局3つしか卵が取れなかったこと。

それを「3つも取れたって!」と喜ぶオット氏。

「3つしかだよ!」と朦朧とした麻酔の中で呟く私。

 

これだけ使って3つって。オット氏は胚盤胞到達率なんて知らなくて、かつ、そもそも初期胚と胚盤胞の違いすら、当時はよく分かってなかった。

そして、胚盤胞到達はゼロ。この採卵数は妥当なのかと聞くと、むしろ良いスコアだという医師。

 

いや、もっといける気がするんだよな。こんなに薬使ってるなら。なんとなく。根拠ないけど。

 

次の採卵は初期胚で行こう、と決めたのも私。

漢方やサプリも真剣に選んで飲み出して、個数が思ったより取れた。

けれど、胚盤胞まで育てる勇気を持ちきれなかった。

(通院中の病院は、初期で全数凍結か、胚盤胞を全数目指すか、どちらかしか選べないのです。できれば初期胚を2個くらい確保したあと、胚盤胞への継続培養とかして欲しいんだけどな……。未成熟卵の追加培養もない。顕微か体外かも一択。)

 

初期胚計4つの移植は撃沈したけれど、考えてみたら移植までいってるんだからそれなりに頑張った。

なんとなく次は育ててみたら胚盤胞までいけるかもしれない、と決めて、鍼を始めた。

3回目に望んだ採卵では、正常受精した5つが(グレードはともかく)全て胚盤胞まで育ってくれた。

 

こういう自己決定そのものが、どこかで間違っていたのかもしれない。

近道もあったかもしれない。転院も何度も考えた。2回目も胚盤胞目指してたら。都内の有名クリニックに行った方が。

でも、限られた時間で自分なりに考えて、自分の感触でその時なりに心を確かめてきた。だからもう、今回はこれで行ってみるでいい。着床するかは分からないし、望みは薄かったとしても、そもそも不妊治療をしている同志の方々も含め、上手くいかないことを前提でやっている人は、誰もいないんだから、と勝手に心強くなってみたり。

いつかここまでと、線を引く日までは、どんなにほのかなものであっても、吹けば飛ぶような薄くて軽いものであっても、期待のようなものは、何としても未来につなぐことが、私に今できることです。

 

まずは卵が取れて、それが受精できて、それが初期胚になって、胚盤胞になって、移植できる内膜になって、移植ができて。ここまではやっと来た。いや、本当やっと来た。うん、うん。お金も時間もかかった。MPAは思い返せば辛くてだるくてきつかったし、二ヶ月ごとに職場に頭を下げて入院をした。いつかこうやって、入院して摘出するんだろうなと病棟の天井や銀色の手術室をぼんやり眺めた。結果を聞くたび、いつか寛解して、このあと不妊治療なんてできるの?とトイレや帰りの車で泣いた。異型細胞が出続ける子宮を呪いそうになりながらも、もうちょっとだけ、あと少しだけと自分の中の懇願して、鼓舞した過去があって、今がある。

 

この一つずつのハードルを、なんかちょっといける気がする、で乗り越えてきた。

もちろん、乗り越えられないときがあっても、続けていたからここまでは来た。

これはもちろん、周囲や医療の力を借りなければできなかったけれど、他ならぬ過去の私がちゃんと持ってきてくれたもの。会計が終わって帰るとき、入院のために何度も通った病棟へのエレベーターを眺めて、あの日の自分のことを思い出す。婦人科の方の主治医が、電カルに「(カンファの結果)摘出を強く勧める」という文字が表示されたのを、私に見えないようにささっと消したあの日のこと。

結局MPA中、婦人科の方の主治医は一度も、私に摘出を勧めはしなかった。そして、寛解が分かったその時に、同じ病院の不妊治療の担当科に最短で繋いでくれた。私が何度も諦めそうになっても、医療はきちんと前に進んでくれている。

 

大丈夫よ、過去の私。今はなんとか不妊治療まで漕ぎ着けてるよ。本当に少しずつだけど、成果みたいなものもあるよ。頑張ってるよ。非可逆的に一直線な私たちは、結局一番近い過去と未来にしか触れられないけれど、ずっと同じように思っている。なんとか我が子を悪戦苦闘しながら、育ててみたいよね。

お母さんになりたい。

なりたいよーーー!!!!なりたいんだよ!!

 

そのために今の私ができることは、未来の私に、今の感覚をちゃんと抱えて、一生懸命考えた選択を重ねる、この過去の自分からのバトンを渡すことです。

 

帰って来るなり、うちのネッコさんが膝の上に乗ってきて、おでこを手に擦り付けながら尻尾で私の下腹部の辺りを撫でる。ネッコさんの喉から奏でられるゴロゴロサウンズを聞きながら、多分、このあたりにあるのかな、と生まれた時から付き合っているはずの、自分の子宮を思う。

 

あなたのことは全く分からないな。だけど、私は自らの他多数の臓器よりもよっぽど、あなたと向き合ってるんだけどもね。

引退させてあげたい年齢ではあるけれど、もう一仕事頼みます。なにとぞ。

大仕事になるけど、一緒にもう一息、頑張って行こう。

 

ねえ、ネッコさん。あなたも応援してくれるかしらねえ、と、顔を近づけて、鼻チューしてくれるのかと期待して待っていたら、勢いよくおでこを押しつけられて、ワップとなった。私はあなたを産んではいないけれど、あなたのお母さんのような家族であって、それはとても幸せなことだと思います。それだけは本当に確かなことであって、私にはっきり分かることだな、と思う。

MPA中も、不妊治療中も、どんなに辛くても悲しくても、あなたが側にいてくれた。ただただ、猫は偉大。

…………ん?夫?……夫は……うん、夫も、かな。ありがとうね。