藤原弘達『創価学会を斬る』41年目の検証

2012年2月20日発行

㈱日新報道




口汚い言論攻撃の温床

     ──池田大作の教唆扇動が発生源



 仏教用語を恣意的に解釈



 だが、池田氏はこうした点には委細かまわず、我田引水的・恣意的に仏教用語を曲解し、自己の言動を正当化する根拠と位置づけている。

 そうしたご都合主義的な用語解釈の最たるものに「仏法とは仏と魔との戦い」との言葉がある。これは創価学会を「仏意仏勅」の正当な仏教教団、すなわち「仏の勢力」と位置づける一方で、創価学会に仇なすものを「魔=仏敵」と位置づけ、「仏法」は絶えざる「仏の勢力と魔の勢力」の戦いであるとして、創価学会による批判者攻撃、対立者攻撃を正当化する考え方である。

 衆院総選挙の過程で、池田氏は「聖教新聞」紙上に随時、「随筆 新・人間革命」を掲載したが、その中でこの「仏と魔との戦い」という言葉を多用した。もとよりここでの使用目的は、「仏の勢力」である創価学会が推す公明党候補の当選を阻害する「魔」を断固としてうち破れという意味である。

「仏法は仏と魔の闘争 善が勝つか悪が勝つか──その熾烈な精神の闘争、邪悪との戦いが仏法だ」(平成一五年一〇月二二日付「聖教新聞」「随筆 新・人間革命」)

「『人生は仏と魔との戦いである』と、釈尊(釈迦)は示した。蓮祖(日蓮)は、『仏法は勝負である』と説かれた。負けぬために、正しき信仰がある。勝つために正義の信仰がある」(平成一五年一一月五日付「聖教新聞」「随筆 新・人間革命」)

「仏敵」である「魔」は「極悪」であり、「犬畜生」に劣る。当然、人権など顧みる必要などないということになる。こうした手前勝手な理屈が、創価学会の批判者・対立者への口汚い言論の温床になっているのである。


検事や学生に「復讐」を扇動
 さらに池田氏は創価学会の活動の基軸をなすのは、「復讐」であると、「復讐」教あるいは「怨念」教さながらの言説も繰り返している。例えば昭和五一年八月二二日、池田氏は神崎武法氏(元公明党代表)ら、「自然友の会」と呼ばれていた学会員検事のグループと面談した際、次のように発言している。
「私が戦ったのは、戸田先生の復讐のためだけだ。革命とは復讐戦だよ。戸田先生は、牧口先生の復讐のために戦った。私の復讐は弟子たちがやるんだ」
 同様に平成八年一一月三日に創価大学で開催された「創価同窓の集い」の席上、次のように話している。
「師である私が迫害を受けている。仇を討て。言われたら言い返す。打ち返す。切り返す。叫ばなければ負けである。戸田先生も、牧口先生の仇をとると立ち上がった。私も戸田先生の仇を取るために立った。私の仇を討つのは、創価同窓の諸君だ」
 これに先立つ昭和四一年九月号の「前進」(幹部用テキスト)にもこうある。
「戸田先生や牧口先生の仇をうつために、(私は)会長になり、立ち上がったのである。あとなにもない。これが師弟の道です。これが同志の契りです」

 学会員の検事や創価大学のOB・OGに「復讐戦」「仇討ち」を命じる池田氏。こうした指導を受けている学会員検事が、仮に創価学会が新潮社や筆者など創価学会と対立する人物や団体を名誉毀損罪で刑事告訴し、その担当となった場合、公正・公平な態度が担保されるのだろうか。
 平成一一年の自・自・公連立政権成立以来からすでに四年。この四年間に限っても冒頭で記載したように創価学会は、自らと対立する立場の人物や団体を口汚く罵り、激しい攻撃を加え続けているが、そのすさまじいばかりの「怨念」は、すべて「永遠の指導者」である池田大作氏が発生源なのである。