昨日はほとんど家でゆっくりしていた。

レポートをかいたりしただけで、かなりのんびりしてしまったと思う

途中近所に買い物にいった

いわしのオイルサーディンをかってきて燻製塩で味付けしてフライパンで焼いた

おいしかった

耳をすませばを借りてきて観た

じつは今までちゃんと見たことがなかった

お母さんがしずくに対して言うセリフが、

そのまま私が母親から毎日のようにいわれてきたセリフだったので

とても懐かしかった。

学校から帰宅後、電気もつけずに物語をかく雫に、

帰宅した母親が電気をつけ、

「あら、帰ってたの?洗濯物くらい取り込んでよ!」

どこも同じなのかなあと思った。

私も学校から帰宅して、家で本を読んでいる間に外が暗くなっていることに気づかず、

任されていた家事も忘れていたことが多く、仕事から帰った母親によく怒られた

仕事から帰ってから寝る前までの母親はイライラしていることが多かったのでその時間帯の母親は苦手だった

耳をすませばは、進路や恋や家族に悩む中学生の話だ

ああ、わかるなあと思う場面ばかりだった

あの時期特有の悩みばかりだと思うが、少しは成長した今の私でも、

当時の悩みにアドバイスすることはできないなと思った

きっと正しいや間違いのない悩みだからだと思う

だから、そういう時期の子を持つ親もまた、悩むのだろうなと実感した


やりたいことはやりたいときにやらせることが大切だと思う

この考えは私の中でしっかり根拠のある考えで、このさきもあまり変わることはないと思う


一般的な幸せが両親や祖父母の世代と変わってきていると思う

私たち以前はある種、大方の人が望む決まった幸せの形があったように感じる

その型にはまっていれば、幸せだと評価され、評価されることで幸せだと感じていたのではないかと思う

あるべき姿=幸せ

が多くの人に認識されていたと思う

今もそうだと思うが、あるべき姿がかなり多様化して、

あるべき姿がなくなってきているように感じる

それぞれ個人が自分であるべき姿を理解して定めて、それで幸せを定義しているように感じる


教育は難しくて、それまでの経験だけで教育するのは足りないのだと実感する

そのときそのときの社会の流れをよく考えて予想して教育すべきだなと


幼いときのは常識やリスクにとらわれずに、自分の本当の要求を意識しやすいと思う

そのときに何でも経験させて、知識をつけさせる

0と1は全く違う

その経験は自分が何をしたら幸せになるのか、ゆくゆくは社会に貢献できるのかを導くたいせつな材料になると思う


本人が必要と感じれば後戻りはできるのに

親も子もその時その時の判断が一生を決めるかのように悩むことが多い気がする



だから弟が中学をでてブラジルにいってサッカーをしたいといったとき、反対せずに行かせればよかったのになーと思う

両親はきっと心配すぎてさみしすぎたのだろう

でもあの子のサッカーの芽は本当に貴重だったと思う

たとえ途中で帰ってきたとしても行かせる価値が大いにあっただろう

だから、自分の子にはやりたいことはやらせたいと思う





今日は雨だから嫌だけど、シャワー浴びて大学に勉強しにいこうかな