62景 駒形堂吾嬬橋 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  62景 
 題名  駒形堂吾嬬橋
 改印  安政4年正月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政3年4月12日ころ 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-駒形堂吾嬬橋


 題名にもあるように駒形堂が左下に描かれている。現在は朱塗りの建物だが江戸時代は白塗りだった。駒形堂は浅草寺の門口にあたり、その名は馬頭観音が安置してあることが由来である。浅草寺に向かう人はここで手水をとり、口をすすいで身を清めるのである。また吉原に行く人もここを舟着き場と定めているが、実際には山谷堀の入り口まで舟で行けた。
 安政地震では、駒形堂の周囲はひどく類焼したが、駒形堂は無事だった。絵にある赤い旗を揚げているのは小間物屋紅屋百助で、位置からして類焼をまぬがれなかったと思われる。この絵は百助の広告目的の一枚なのである。

 駒形堂の右側には材木が多数立てかけられているが、これは材木町のものと思われる。しかし絵のように駒形堂と吾妻橋に見える位置から描いたとすると、材木町は駒形堂の後ろになるはずである。江戸名所図会には駒形堂の下流河岸の様子が細かく描かれているが、材木を置いていた様子はない。したがって広重は絵のバランスをとるためにデフォルメしたことがわかる。
 ちなみに図会に見える駒形堂前の石柱は殺生碑と呼ばれ、ここから真土山聖天までの漁の禁止を示してるが、この辺りは駒形どじょうをはじめとする料理屋が多いのが皮肉である。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-江戸名所図会駒形堂清水稲荷
江戸名所図会 駒形堂清水稲荷


 駒形堂の後ろの川は隅田川で、対岸は中の郷や番場町の町並みとお寺が密集していた地域である。安政地震の被害は武江年表によると、
「南本所荒井町、北本所荒井町、五の橋町、出村町、瓦町、番場町、中の郷竹町、中の郷太子堂、同所武家地、茅場町、石原町其の外組屋敷等潰れ、焼亡す。」
とあり、一帯が火事により大被害を被った。しかしこの絵ではすっかり復興していることがわかる。

 空にはホトトギスが飛んでいる。堀氏によると吉原遊女高尾や向島の風景を唄った小唄にかけているそうだ。ホトトギスばかりに目がいってしまうが、初版には雨が描かれていて、雨雲があてなしぼかしで描かれている。摺りと彫りの高い技術が使われいてる一枚であることにも注目したいところである。

 ホトトギスが背中を反らして飛んでいるホトトギスの絵は、四条円山派によって好んで描かれたので(大江戸鳥暦)、それをまねて描いたのだと思われる。実際はこのような飛び方ではなく、体は水平で羽ばたく間合いに鳴く。
 広重は百景に先立って安政3年刊行の「狂歌江都名所図会」で同じ構図のホトトギスを描いており、高尾に懸けてホトトギスを持ってきたのだと思われる。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-狂歌江都名所図会
狂歌江都名所図会


 いつものようにこの絵の描かれた日の推測をしてみよう。ホトトギスが鳴くのが立夏から10日ほどで鳴き始める。「馬琴日記」の文政10年4月24日に、「今朝ほととぎすの初声、辰巳のかたに数声。今日、立夏後10日に及べり」とある。安政地震後だと安政3年の夏を描いたことになる。ただ安政3年夏で、火事の被害が非常に大きかった隅田川の両岸でが、絵のように復興しているとは思えない。
 一方改印が安政4年正月であり、前述したように、この絵は赤い旗を揚げている小間物屋紅屋百助の宣伝目的であろうから、改印のころに数ヵ月後のセールのころに絵が発売されるように時期を先取りして描かれたのだろう。
 よって町並みは安政4年正月ころの風景で、ホトトギスは今後訪れる安政4年の夏を意識して描いたと考えられる。
 話がまとまらなくなったが、ここでは最初にホトトギスを描いた狂歌江都名所図会の描かれた日をに注目して、安政3年の立夏後10日目、すなわち安政3年4月2日から10日後の4月12日を描かれた日とする。

参考文献
江戸の日暦〈上〉 (1977年) (有楽選書〈14〉)
定本武江年表 下 (ちくま学芸文庫)
広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
大江戸鳥暦―川柳でバードウォッチング


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