60景 浅草川大川端宮戸川 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  60景 
 題名  浅草川大川端宮戸川
 改印  安政4年7月 
 落款  廣重筆 
 描かれた日(推定)  安政4年5月5日 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-浅草川大川端宮戸川


 この絵について解説をしている書物の多くは、大山詣に行く人が出発前に大川で水垢離をしているとしているが、はたしてそうだろうか?
 大山詣には各町や同業の組合で講を作って資金を積み立て、くじに当たった人が大山詣でに行くのが一般的で、江戸から見える大山(関東から見ると富士山の南側にある丹沢山系の一番南側にあるのが大山である)も、町人にとってはめったに行けない大旅行であった。その講が出発前に舟を仕立てて、先頭におそらく先達と思われる法螺貝を吹く人が雰囲気を盛り上げている、という解釈が今までの通説である。

 ところが気になるのは絵で大きく描かれてる梵天で、当時の大山出発の水垢離で梵天を使ったという記録が見当たらない。明らかに水垢離を描いた絵として、国芳の東都名所「両国の涼」があるが、それには「太刀奉納」の木製太刀をもって、「ざんげざんげ、六根清浄」とおそらくは唱えているだろう姿が描かれているが梵天はない。
 一方、端午の節句では梵天を使ったという記事が多くある。このブログでよく引用している4代目広重を唱える菊池貴一郎の江戸府内絵本風俗往来に大川筋水垢離は端午の節句にするとあり、その絵も載っていて、この絵と状況が似ている。その説明には「大川筋水垢離 梵天というものを造りて、町々の若衆大川へ大伝馬船をうかべて漕ぎ出し、山伏法螺貝を吹きならし、若者手拭いの向鉢巻調べの染袢纏勇ましく・・」とある。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-江戸府内絵本風俗往来端午梵天
江戸府内絵本風俗往来端午梵天


 江戸の日暦(上)では、端午の節句の行事として、「町々の若い衆が梵天というものを作って、大川へ大伝馬船をこぎ出す、山伏のほら貝を吹きながしながら、・・」という記事がある。

 ということで、この絵は端午の節句の様子というのが有力であろう。堀晃明氏の「広重の大江戸名所百景散歩」は結構間違えがあるので仕方がないとしても、ヘンリースミス氏の「広重名所江戸百景」までが、同様に大山詣の水垢離と解説しているのは少々残念である。大山詣については、さらに詳しく説明したいところだが、76景「京橋竹がし」ですることにしよう。

 さて、この絵に描かれているその他の風景について解説しよう。この川は現在でいう隅田川であるが、江戸時代では場所場所によって呼び方が変わった。題名の宮戸川、大川、浅草川は全て隅田川のことで、単に場所による呼び方の違いを並べただけの題名である。ゴロが良かったからだろう。
 遠景に筑波山が描かれているが、例によって隅田川の延長線上に筑波山が見えたかどうかは疑問で、デフォルメしたと思われる。
 川の左側に支流が描かれているが、これは神田川である。描かれていないがすぐ左側には柳橋がある。そして角地にあるのが柳橋料亭の万八で、つまりこの絵は、万八の入り銀ものであることがわかる。万八は文人が書画会をよく開いていたそうで、義理堅く、品性のある広重は少なからず呼ばれたと思われる。
 広重は過去にも数回、万八が構図に入るような絵を何度か描いているが、同じような構図を嫌って、端午の節句の風景を取り入れた広重得意の近像型構図で描いている。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-江戸高名会亭尽柳橋夜景万八(藤彦天保3~5年)
江戸高名会亭尽柳橋夜景万八(藤彦 天保3~5年)


 最後にいつものように、この絵の描かれた日の推測をしてみよう。改印が安政4年。安政4年といえば安政地震や安政3年の台風被害からかなり復興が進み、むしろ復興景気によって景気が良かった年である。安政5年になると復興景気が一段落して、少し不景気になったそうだ。舟の数や、お揃いの衣装、めかした格好からすると、景気の良い安政4年であることが有力である。もし大山詣での出発であれば、山開きの数日前の風景ということになるが、前述したように端午の節句説とすると、この絵が描かれたのは安政4年5月5日ということになる。

参考文献
広重―江戸風景版画大聚成
江戸府内絵本風俗往来
江戸の日暦〈上〉 (1977年) (有楽選書〈14〉)
もっと知りたい歌川国芳―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
川柳江戸名物図絵

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