57景 みつまたわかれの淵 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  57景 
 題名  みつまたわかれの淵 
 改印  安政4年2月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政3年3月16~29日 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-みつまたわかれの淵


 今では想像もできないが、江戸時代の隅田川は洲が多い川だった。特に新大橋と永代橋の間には、中州と呼ばれる大きな洲があり、隅田川の一部は洲の西側の箱崎川のほうに流れて、永久橋の手前が水路が3つに分かれて見えるので三俣と呼ばれていた。

 この中州は寛政のころ大規模に干拓されて、遊興の場として大繁盛した時期があった。しかし干拓したことで隅田川の流れが悪くなり、上流で洪水が多発したとかで、松平定信によって全面撤去され、干拓地も一部が掘り下げられてしまい、繁華街としての幕を閉じた。幕末に描かれたこの絵には、その面影もない。
 三俣は月見の名所として有名であるが、絵にあるように殺風景で絵にするには適しておらず、三俣を題にした広重の作品は、筆者が知る限り他に1つしかない。

 その作品は、嘉永7年(1854年)11月の山田屋版江戸名所「大橋中洲三ッ俣」で構図は百景とはだいぶ異なるが、描いた時期は3年ほどの違いである。この絵と比較してみるといろいろなことが分かる。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-江戸名所(山田屋嘉永7)大橋中洲三ツ俣
江戸名所(山田屋嘉永7)大橋中洲三ツ俣


 赤い門は堀田備中守の上屋敷であるが、壁が白漆喰から、黒漆喰に変わっている。壁を黒にするのは天保のころから徐々に増え始め、当時の流行りであるが、おそらく安政地震で外壁が崩れたのを機に黒漆喰の変えたのだろう。
 黒漆喰が流行りだしたきっかけは天保の改革で、ぜいたくが禁止された武家や商家が、手間のかかる黒漆喰にして、ひそかにぜいたくを楽しんだのがきっかけとされる。改革後もこの流行は止まらず幕末まで続いたのであった。
 またその隣は松平三河守の下屋敷であるが、百景では黄色く横に線が入って描かれている。おそらく土と平らな石を交互に積み重ねた築地壁で、土の色を黄色くしたものだと思われる。当時の流行りについては資料が見当たらないが、54景「外桜田弁慶堀糀町」で木の後ろに描かれている井伊家の壁にも同じものがあり、流行があったのかもしれない。
 大川に面して目立つ位置にある2つの隣り合った屋敷の壁が、安政地震の前後で派手に変わったことから、今まで名所とされていなかった場所を新規に取り入れる題材としては恰好のネタだったのだろう。

 葦の長さも2つの絵は描き分けられている。山田屋版では非常に長く描かれており、夏もかなり盛りの時期であることが伺えるが、この絵では短く晩春であることがわかる。描かれた人の服装からもまだ寒さが残る時期だろう。葦の描き方が29景「砂むら元八まん」に似ているので、桜が咲く時期としてもおかしくない。

 最後にこの絵の描かれた日の推測をしてみる。改印が安政4年2月であるが、葦の生えかたから晩春か初夏であり、前述した大名屋敷の壁の色が安政地震の修理によって変化した期間となると、安政3年しかない。安政3年は4月2日の立夏を過ぎると暑気が出てたと月岑日記にあり、また人々の服装から、穀雨と衣更えの間、すなわち安政3年3月16日から3月29日(小の月)と推測される。

この記事で参考にした本

東京都の不思議事典〈上巻〉

広重―江戸風景版画大聚成

切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩 (古地図ライブラリー別冊)
斎藤月岑日記6
江戸川あるき 栗田彰

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