56景 深川萬年橋 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  56景 
 題名  深川萬年橋 
 改印  安政4年11月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政3年8月14日 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-深川萬年橋


 この絵は一見すると何を描いたのかわからない構図であるが、想像をめぐらすと萬年橋の欄干の隙間から大川と富士山を望み、手前には手桶の取手につるされた亀が描かれていることが分かる。

 この吊るされた亀は奇妙だが、江戸時代に風習として放生会というのがあり、8月15日ころ亀や鰻などの生きた水生生物を逃がしてやる儀式が各所の神社仏閣で行われていた。このため、放生会のための生物の辻売りがいて、ここ万年橋には、「亀は万年」にひっかけて亀が売られていたようだ。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-冨嶽三十六景(北斎)深川万年橋下


 深川万年橋といえば、葛飾北斎の冨嶽三十六景深川万年橋下で有名である。小名木川の最も下流にあり、隅田川に流れ込む手前にあった万年橋は、絵のように富士山を眺める絶景ポイントでもあった。

小名木川は古い人口河川で、家康が江戸入府直後に行徳の塩の運搬ルートとして開削した。当時小名木川の南側が海で、海からわずかに陸側に堀を作ったのである。これは地盤が軟弱なため掘り易く、舟は海よりも波もなく遭難の危険がないため、運搬が容易となるためで、家康がなぜ知っていたのか世界的に行われていた開削方法であった。
 小名木川は川幅20間、万年橋は22間で、隅田川に架かる大橋は別にすると、江戸では長いほうの橋であった。

 話がそれたが、富士を描かせたら右に出るものがいない北斎に対して、広重は相当意識していたようだ。北斎の死は嘉永2年(1849年)。広重はそれまでまで富士山の揃いものを描かず、嘉永5年になって「不二三十六景」を出すのであった。また死の直前の安政5年に冨士三十六景を出している。しかし不二三十六景、冨士三十六景いずれにも万年橋は出てこない。広重は北斎のこの構図をよほど意識していたようで、百景で遂にこの構図で挑んだのであった。残念ながら亀を配置したり万年橋の全景を描かなかったりで、奇をてらう感じがあり、まっこう勝負というわけではなかった。

 その他の絵に描かれているところを見てみよう。隅田川の対岸に描かれているのは、浜町の武家屋敷の塀だと思われるが、どうもよくわからない。新大橋と三又の間なので、堀田越中守の上屋敷になるはずだが、赤い門が描かれていない。次の57景「みつまたわかれの淵」では明確に描かれているので参考にされたい。またこのあたりの隅田川は洲が多いのであるが、みつまたのように大きな洲になっていない。広重は何か構図を意識して、少しデフォルメしているようだ。

 最後にこの絵の描かれた日の推測であるが、放生会の当日、あるいはその数日前であろう。改印のある安政4年8月15日の放生会の当日の天気は雨天であった。8月15日といえば中秋の名月になるのだが、月岑日記には「月見雨天」と簡潔に書かれている。またその前の数日もずっと曇りであった。よって安政4年は当てはまらない。安政3年は8月13日より冷気があり、14日は、月岑日記に「月精光」、翌15日は昼間は晴れていたが暮時より曇ったとある。この絵は地平線が赤く描かれており夕方のようだから、暮より曇だと一致しない。天気から見ると安政3年の14日がぴったりである。
 もっともこの数日後の安政3年8月15日に未曾有の台風が江戸を遅い、地震に続いて再び江戸を壊滅させてしまった。その日をわざわざ改印のある1年数ヶ月後に描くというのも少し変なので、この日をイメージして描いたといったところであろう。

この記事で参考にした本
江戸・町づくし稿〈下巻〉
江戸切絵図・富士見十三州輿地全図で辿る北斎・広重の冨岳三十六景筆くらべ (古地図ライブラリー)


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