38景 廓中東雲 安政地震と吉原 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

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百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  38景 
 題名  廓中東雲 
 改印  安政4年4月 
 落款  廣重画  
 描かれた日(推定)  安政4年3月8~12日ころ 

広重アナリーゼ-廓中東雲


 吉原は安政地震のとき全焼してしまった。今回はそのときの様子を書いてみる。
 江戸安政大地震は安政2年(1855年)10月2日の午後10時ころに起きた。このときの様子は多くの書物で書かれていて、このブログでも「安政見聞集」「武江地動之記」「藤岡屋日記」などがおなじみである。このなかで特に藤岡屋日記では別本の下巻のかなりの枚数で吉原について書いて、最も詳しい。
 これによると地震によって多くの建物が倒壊し、その後火災が起こって京町1丁目で2、3軒を残すだけで残りは全焼した。火事の多い吉原なので火事で逃げるのはよくあることなのだが、今回は地震による倒壊と合わさったため死者は多く、町方届によると死者は631人となっている。しかし実際にはもっと多いようで、遊女831人、客ひやかし見物454人、茶屋・禿・若者など1415人、計2700人とする説や、またはさらに多く7000人で死骸を12台の車で引き出したとも。ようするにあまりにも多くてよくわからないといったところだ。

 藤岡屋日記では更に続き、地震でつぶれたいくつかの楼の悲劇を上げている。例えば、三浦屋吉右衝門では、かせぎのよい遊女を選んで穴蔵へ入れたが全員焼け死んでしまったとか。
 次に書かれているのは、各楼の主人、遊女、禿の安否である。この絵が描かれた江戸町2丁目の左側には金屋、福住屋、和泉屋、升屋、甲子屋、金沢屋、さかいや、小紅屋、紀の字屋、栖原屋・・と続き、さかいやは主人死、栖原屋は禿まめ、遊女玉琴、若梅、小蝶、菊代、栄山(名前からして遣手か?)が死んだと細かく記されている。これが5町すべてについて書いてあるのである。

 さて地震後の吉原について書いてみよう。吉原では過去に何度も全焼火事があった。安政地震の前は弘化2年に全焼している。全焼すると幕府から仮宅営業が許可されて、浅草、深川などの地に吉原が再建されるまで営業できるのである。廓中では非公認の岡場所とは違い形式にうるさかったのだが、仮宅営業だと市街から近くて通い易く、格式にとやかく言わなくなるので、仮宅営業のほうがむしろ売り上げが多くなり、経営者としては、仮宅営業の方を好んだ。仮宅営業は吉原全焼以外だと許可されないので、吉原では火が出ても必死に消そうとはしなかったという。

 仮宅営業とはどのようなものだったのか。江戸町一丁目の入口にあった大黒屋は、深川の地に仮宅を設けた。大黒屋仮宅の大きな幟を掲げ、近所でもひときわ目立つ造りをしていた(その絵をどこかで見たのだが、出典を失念してしまった・・)。しかしその大黒屋は、安政3年8月の台風のときに洪水にあってしまい大被害を受けた。このときの絵が「安政風聞集」に載っている(実際はカラーなのだが、白黒版を入手したので掲載する)。

広重アナリーゼ-安政風聞集 大黒屋
安政風聞集 大黒屋


 この仮宅営業が明けるのは安政4年になるのだが、それについては次回につづく。

この記事で参考にした本
近世庶民生活史料 藤岡屋日記〈第15巻〉
実録・大江戸壊滅の日 (1982年)
江戸吉原図聚 (中公文庫)

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