33景 四ツ木通用水引ふね | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  33景 
 題名  四ツ木通用水引ふね 
 改印  安政4年2月 
 落款  廣重画  
 描かれた日(推定)  安政3年11月 

広重アナリーゼ-四ツ木通用水引ふね


 引舟とは、絵のように船頭が櫓や竿で船を動かすのではなく、岡から綱で引っ張って客を運ぶ舟のことで、水路がまっすぐであること、途中に橋がないことなど、いくつかの条件がなければ成立しない。この水路は水路の幅が狭く水深が浅いことから、舟運は曳舟しかなかったようである。
 この水路は、かつての本所用水であるが、享保年間に江戸で火事が多いのは地下に水道があるから云々という儒者の進言を真に受けた吉宗公が、神田、玉川以外の用水を廃止してしまった。もっともこの説はなにか裏がありそうで、本所用水は、水源の水量不安定、下流では海水が混じるなど不便であったことが理由と考えられる。
 ただこの用水が廃止されてしまったため、水路が張り巡らされている本所深川の一帯は水の調達に不便になり、以降水は買うものとなった。水売りは銭瓶橋にある上水の吐水口から水を汲み、1荷4文で売った。風呂は風呂舟というものがあった。1つ前の32景「柳しま」のある柳島は、天水を利用したという記事があるので、水は貴重であったことが伺える。

 この本所用水は廃止後に曳舟が始まったことから、曳舟川と呼ばれるようになった。上水で使われていたころ、水が汚れるようなゴミ捨てや洗い物は当然禁止で、釣りもできなかった。水運に利用することも禁止であった。それが上水廃止によって、新しい産業が生まれたのである。
 運用されていた舟の数は、葛飾郡篠原村が2艘、亀有村が7艘、四ツ木村が3艘の計12艘であった(江戸上水道の歴史)。

 話が少しそれてしまったついでにもう1つ余談。この川は現在埋め立てられてしまったが、東武線の駅名に名前を残している。筆者の親戚がこのあたりに住んでいて、昭和50年ころによく遊びにいったのだが、この辺りは戦争で焼け残ったところで下町情緒のあふれる良い場所であった。行くと必ずもんじゃを食べたものである。

 この絵では曳舟川は湾曲して描かれているが、実際にはまっすぐであったと思われ、広重はよく奥行を出すために故意に直線のものをデフォルメして湾曲して描いている。この手法は、同時期に描いたと思われる絵本江戸土産でも採用されている。

広重アナリーゼ-絵本江戸土産 四ツ木通引舟道
絵本江戸土産 四ツ木通引舟道


 絵本江戸土産では、女性や少し腰が曲がった老人のような人が曳いている。この仕事は体力の弱い人でもできるこの周辺の農家の良い副収入になっていたようである。
 絵本江戸土産の説明には、「四ツ木通 引舟道 前に記せし堀割はその長きこと二里に余り,末流新宿(にひじゆく)の川に入る。適(たまたま)ここを過ぎるの族客舟に乗つて往還すれど,元来幅の映(せば)きによりて,その舟に縄を掛け陸(くが)に在りてこれを引く。よつて引舟通りと唱ふ。水竿(みさを)を操り櫓をおすより,またその容(さま)は風雅なり」

 最後にいつものように、この絵の描かれた日の推測をしてみる。この絵が春の風景であるという明確な根拠がわからない。人々の服装からまだ寒い時期であること、周辺の田圃にまだ田植がされていないことなどから、寒い時期であることはわかる。しかし一番手前に見える木は、おそらく梅であろうがまだつぼみであり、春とするならば初春ということになる。
 また江戸土産の曳き手と百景のとは、背格好が一致していることから同じ人を描いている。江戸土産7編は安政4年刊行で、江戸土産と百景は近い日に描いたことがわかる。おそらく改印からそう遠くない時期だろう。
 改印が安政4年2月であることから、おそらく安政4年1月といった梅が開花する前の初春の一日を描いたものと思われる。安政4年の梅の開花は、通常よりも早かった。例年なら立春より30日から開花するが(江戸名所花暦)、この年は立春から数えてわずか7日目の1月14日に「梅屋敷満開」と斎藤月岑日記に記述がある。従って梅がつぼみであるこの絵は、この日より数日以上前になるが、松の内や、年の瀬のような風景でなくどことなくのんびりしている。そう考えると前年の11月ころの風景であると考えられる。

この記事で参考にした本
切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩 (古地図ライブラリー別冊)
今とむかし広重名所江戸百景帖
広重と浮世絵風景画
新版 江戸水の生活誌―利根川・荒川・多摩川
江戸名所花暦
江戸上水道の歴史
絵本江戸土産 7編
斎藤月岑日記6

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