どうしても、理解できない人に、直面するのは、
私は自分の限界に直面したのと同じ事。
それは、なんだっていいよ、
たとえばそれは、
特定の人種の人を、「気持ち悪い』と、何の疑問も持たず、言い放つ人だったり、
使い古しの下着やおむつを床に捨てっぱなしにするほど、散らかった
部屋の中で暮らしていて、それでもまだ、私の目の前で、テーブルの
上にあるものを、床にばらまいて、へらへらと笑っているという、
そういう人だったり。
この人は、これだけ生きてきて、今まで生きてきて、
一体、何を見てきたのだろうと
思うとき、
私の心の中に、鉄板が張ったようになる。
理解をしたい。
でも同時に、
私はゆるさない、という
私はそちらには行かない、という、私の意志。
その意志は、自分に向けるべきものなのに
私は、内省という形をとらず
その人たちに、負の念として放っている。
この私の姿勢は何か。
これこそ、分離、隔離、隔絶、じゃないのか。
私は、どのように、彼らを同胞として
受け入れればいいのか。
(ここでは、敢えて、「受け止める」ではなく、「受け入れる」と表現したい。)
わたしには、できない。
私の中に、愛はあるのか。
「愛はすべてである。」という真理
でも、私の中に愛は、あるのか。
私は、自分の中に、愛を見つけることができるのか。
生きてるうちに、できるのか。