みなさんいかがお過ごしでしょうか、ドラムのきっくです。
みんなに最初に言っておかなければいけないことがあるんだ。
俺の生まれは日本じゃなくて、タイの北にある小さな村。
そこで誰かの子を孕んだ、誰かから産まれてきた。
気付いたときには両親なんて立派なものは居なかったし、家なんて立派なものも無かった。
道が俺の家だったし、その道の脇が俺の家だった。スラムだったから。
アメリカみたいに、ホームレスが何もしなくても稼げるようなインフレも、資本主義が生み出すデフレも、そこには無かった。
あるのは空腹と虫歯だけ。
タイじゃ虫歯治療は抜歯する他にないから、大人たちはみんな歯抜けだったし、俺も奥歯を2本抜いてる。
だから歯医者は廃業だ。
日本へ来たときは、こんなに歯医者が高い給料を貰っていることにびっくりしたよ。助手は顔で面接してるみたいだしね、平和な国だよ。
タイにだって居るんだよ、裕福な人間や、頭がすごくいい人間が。
彼らは物の少ない国で、頭のなかに入ってるものだけで勝負してた。
俺なんて、振ったらからんからん鳴っちゃうくらい。
だから、裕福なやつや、容姿がいいやつにくっついて暮らしてた。
不自由はしなかった。
ただ、毎日照りつける日差しと、路地に漂う腐敗臭のおかげで、味覚も嗅覚も鈍っちゃったけど。
幸せそうな人って、わかるんだよね。
お裾分けのつもりかもしれないけど、俺は悲しくなった。見るたびに。
未来とか、将来の夢とか、そんな食べられないものなんて、そこいらに落ちてるゴミと同じ。
今だけ見て生きてた。毎日。
その日は、明日結婚するっていう紳士の靴を磨いてた。
ここいらじゃみんな肌の色が黒いから、刺青してる人はほとんどいない、やばい人達だけ。
そこに通りかかった、真っ白な長髪の男。
その珍しいくらい白い肌がほとんど隠れるくらいに身体中に様々な模様が入った細くて不気味な男。
俺は思わず、かっこいい、と声を漏らした。
すると男はちらりとこちらを一瞥し、お前バカなのかと言った。
そしてフラフラと歩み寄ってきて、殺してやる、と言って、珍しい銃を頭のてっぺんに垂直に突きつけてきた。
『今から死ぬのに、そんなキラキラした目で俺を見るな』
男はそう言って黒目だけで周りを伺いながら銃をしまった。
『俺は人を撃つのが趣味じゃなくてね』
顔を近づけ、歯を閉じたまま唇だけでそう呟いた。
『明日からまた海の上だ。最後の陸地は楽しく終えないと』
彼は礼儀正しくお辞儀をすると、自分を「ドート」と名乗った。
日本で言うと、跳ぶ、とか、借金をトばす、って意味らしい。
いいんだか悪いんだか、あの人にはぴったりな名前のように思えた。
俺の名前もディートだし、日本じゃ、蹴る、とか、演奏する、とか、報酬、とかみたいだし、似たようなもんか。
その日は、彼の家だという船の上で、見たこともない美人と、見たこともない酒を朝まで飲んで、次の日から俺はクルーになった。
ドートは俺の船長になった。
俺は彼を兄貴と呼んだ。
彼は俺をたくちゃんと呼んだ。
二人で、陸の孤島「Mobara」の市議会選挙にも行った。
あいにく俺は住所がないから、投票できなかったけどね。
どこの島だったかな、たしか「Kabuki」という町で、ちいさなバーへ入った時、偶然居合わせた「みむぅ」とか言う奴と一緒に写真を撮った。
今思えば一緒に撮った写真はこれが最後だった。
俺たちの海の、もっともっと上の海に、船長は航海に行った。
君が思ってるよりもっともっと上のね。
最初は、やばい人だって思って怖かったけど、船長は人を殺す度胸は持ってなかったし、人を傷付ける才能は、誰よりも無かったんだ。
俺みたいな道端に落ちてるゴミグズみたいな奴の手も取ってくれて、素晴らしい世界を見せてくれた。
船長がハンドルを握るあの車が好きだった。
西日に目を細める、細くて華奢な顔立ちが好きだった。
飲みすぎて渋谷の路上で粗大ゴミになっている船長を、『凍死しちゃう!凍死しちゃう!』と、室内へ担ぎ込んだこともあったっけ。
船長は、自分が、いつか、俺たちと違う海へ行かなければ行けないことを、勘づいていて、でも今は、我慢しなきゃいけない時期だって思って、悪魔と戦ってたんだ。
そんなこと、誰にも言わずに。
ただ1人で、戦ってた。
たった1人で。
俺たちが気付かない場所で。
自分と、自分の運命と、一騎討ちしてたんだ。
そして、船長は、遠くへ行った。
数々の海を見てきた船長は、最期のその時、どう思ったんだろう。
俺の顔、少しは思い出してくれたかな。
弱音を吐くのも、強がるのも嫌いで、いつも平常心で、俺に海の怖さと優しさを教えてくれた船長。
船長みたいになりたいって思った。
あんだけ色んな海を共にしてきて、思い返せる思い出って、1個か2個しかないんだ。
だって、これからも、ずっと一緒に航海出来るって思ってたから。
船長が居なくなった船は、今もキャプテン不在のまま。
船長が好きだったあの甘いお酒を、毎年みんなで飲んでるよ。
そっちでも毎日飲んでんだろうな。相変わらず、無茶して、でも誰よりもやさしい。
もう少しの辛抱。
この素晴らしくてクソみたいな世界にオサラバしたら、みんなで追いかけるから。
ちょっとだけ待っててね。
R.I.P