少年に対する死刑判決
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山口母子殺害事件に「死刑判決」が出されました。
大きな波紋を呼ぶものです。
ひとまずは遺族の求める判決がでたことに、妻とムスメをもつ者として敢えて「よかった」と言いたい。
遺族代表の本村さんの対応・発言に感動しました
。この9年間でいろんなことがあったと想像に難くありません。
ぼくは死刑に対してはどちらかと言えば賛成派です。
(犯罪者になるつもりはないので、死刑囚の立場で考えるつもりはありません。)
よくこの話題で人権の話が引き合いに出されますが、権利というものはかならず義務が伴います。
人間には自ら生きる権利がありますが、生きていくための義務もあるのです。
法治国家においては法律を遵守することが最大の義務といえます。
法律に反した人に対して、その罪の重さに応じて権利が剥奪されるのが刑罰というものです。
刑罰というものは、犯罪者本人に対する懲らしめと国民に対する犯罪抑止の両方の効果があります。
被害者意識としては「恨みを晴らす」ことを来しして前者を望みますが、さまざまな凶悪犯罪が発生している現代の日本においては、後者の方が重要なのではないでしょうか。
そういう意味で、今回の判決、本村さんが発言した内容「まずは遺族の求める判決がくだされた事に感謝します。しかし死刑が決まって喜ぶ気持ちはありません(枝葉末節は異なります)」という発言。
彼はもう一被害者ではなく、今後起こりうる犯罪を憂う立場に昇華
しているのでしょう。さて、善良な市民の感覚で死刑を考えると、「重大犯罪者が近所で普通に生活されては困る
」のではないでしょうか。日本は反省さえすれば死刑囚でなければいずれ世に戻る事ができます。これを心配するのです。
ただ「何も殺さなくてもいい
」という議論は理解できます。終身刑でも良いと思いますね。反対派の人たちは「たった一度の過ちだけで将来を摘んでしまうのか」という思考をするのですが、事情はどうあれ他人の生きる権利を奪っておいて、自分の権利を主張することは明らかに利己的でしょう。
ざっくりと分けてしまうと
賛成派:被害関係者 反対派:加害関係者
という事なんじゃないでしょうか。
どちらの立場を法治国家がとるべきかを考えれば、おのずと答えはでると思うのですが。
とは言え、日々コドモと接する仕事をする身としては、未成年の死刑判決も当然考えさせられるところです。
通常死刑というものは過失致死では成立せず、殺意をともなった殺人罪に適用されます。
そういう意味で考えると小学生であろうが高校生であろうが、それまでの生育環境における発達・発育の結果、殺意という異常な精神状態が芽生えてしまったことが問題なのだと思います。
単にコドモに甘いだけの人たちは「悪気があったわけではないのだから」とか「コドモなんだから未来がある」とか安易なことを言いますが、ボクは大きな間違いだと思います。
よく「三つ子の魂百まで」といいます。小児科医をしていて日々痛感させられることです。
DVなどでも取り上げられますが、幼少期の体験や精神状態が成人になっても影響しているといわれるのもこの格言を支持しています。
生まれ育ったキャラクターというものはそう簡単に変わるものではありません。表面上変わったように見えることはあるかもしれませんが、それは経験により表現型だけを変えている事が多いでしょう。
こう書くと「コドモでも死刑にすべきだ!」という過激な小児科医に思えるでしょうが、言いたいのは「家庭や社会が責任をもってコドモが小さい時から(こそ)ちゃんと育てなければならない」ということです。
少年に対する死刑をどうするかも大事ですが、子育てをどうするか、今こそ議論すべきではないでしょうか。
今日はちょっと真剣な話をしてしまいました。
一緒に考えてくれてありがとうございます。