セレナーデ―愛しのアンブレラ-Sweety-
シングルを持ってないので、どこが違うか比較できません…。すみません。
まず「セレナーデ」に意味について。調べてみました。
セレナーデ(wiki先生)
セレナーデ(独語:Serenade, 北ドイツではゼレナーデ、南ドイツ・オーストリアではセレナーデ)またはセレナード(仏語:sérénade)は音楽のジャンルの1つであるが、音楽用語ではない一般的な言葉としては、恋人や女性を称えるために演奏される楽曲、あるいはそのような情景のことを指して使う。
ちなみに、イタリア語ではセレナータ(serenata)、英語ではセレネイド(serenade)となる。
日本語では、以前は「小夜曲(さよきょく)」という訳語が使われたが、近年ではすでに死語となっており、「セレナーデ」および「セレナード」が使い分けあるいは混用されている。
ほうほう。よく聞くんですけどね、いつも本来の意味が分からないんです。
随分可愛いミディアムテンポの曲ですね。途中途中に入るハーモニカ?なんだろうな、ピアニカ?んなわけないか…。
とにかく、その音が可愛い。
そして、キンコン鳴ってるのもいいです。
この曲の構成って、ちょっと不思議ですね。
AメロBメロが二回あって間奏入ってもう一回AメロBメロ入ってそこからサビになって~っていう。
もしかして、「oh 恋は幻」の辺りがサビだったりして。
それはないか。まったりしながら聞けます。
さてさて…。
まず、何も知らなかった頃の私が読んだ歌詞の感想についてからいきますか。
「アンブレラ」は第三者の目線と「彼」の目線で書かれていましたが、この曲は「彼」…というか、「愛しの君アンブレラ」に恋した人物の視点で綴られています。
もうね。ロマンチックが止まらない。
えらい事です。
「銀河の片隅」という、広大な場所で出会った「あなた」に対する思いのたけをこう…素晴らしく美しく書いていらっしゃいます。
よくある、星の数ほどある出会いから拾い上げられた、特に大切な出会い。
今井さん、インタビュー中に「愛」とは「出会い」と仰ってますからね。
冒頭の
oh 恋は幻 通り雨 過ぎる刹那のonly you
と言いますのは、その出会いの貴重さを書いているのかなと。
「通り雨」は一瞬(人場所気候によってまちまちでしょうが)で、「恋は幻」「過ぎる刹那の」にかけてあるんだろうな。
「例えば~」の二つについて。
何で、毒虫?リズミカルで良いですよね。
毒持つ産毛の虫になったら
想像するとかなりシュールですが、自分も「あなた」も近寄れない存在になったら陰で想っているんですね。
で、「あなた」が闇に魅入られていたら咬んで覚ましてあげるのくだり。
ここでね。気づけば良かったのかもしれない。←独り言
「咬む」んです。「噛む」んじゃないんですよ?
じゃ、意味を書きますか。
「噛む」→食物やガムや歯に使われる
「咬む」犬や猫など動物が咬みつく…という事。
いや、考えすぎなのかもしれませんがね。
なにはともあれ、「あなた」の事を想っているんです。どんな形でも。
で、後半が素敵なんです。
泣いたりしないで
泣いちゃだめさ
なんですかこの思いやり攻撃は。
ニヤニヤしちゃうじゃないですか。
しかし、オチが
夢で逢えるさ
なんですよね。
お別れが寂しくて泣いている「あなた」に「私」が「夢で逢えるさ」と言っているって事で良いですか?
いや、そうとしか読めそうにないんだけれど。
話は変わりますが、「アンブレラ」の所でも書いたのですけれど、「愛しのアンブレラ」って共通なんかしら?
コメントでお教えいただいたんですが、そもそも「アンブレラ」と「セレナーデ」は「対」だそうで。
しかも、私は捻くり回して考えたので気付かなかった…というか己の読解力にすごく疑問を抱いたんですが、そもそも「アンブレラ」は傘に恋した蝙蝠の歌だったんですね。
私、人だと思ってたんですがね…。やられました。
で、その「アンブレラ」との「対」というのが「セレナーデ」なのですが、つまり、「私」が蝙蝠で「あなた」が傘という事です…よね?
…あのですね。いくら詞や曲がロマンチックでもですね。
蝙蝠と傘がキス出来るんですか?
…野暮ですか。そうですか。
解読してみますか。どこまでいけるか分かりませんけど。
「アンブレラ」では、蝙蝠はアンブレラに「あれが太陽」って言ってるんですよね?
なんでかと言えば、傘は基本的に雨の時にしか差さないじゃないですか。蝙蝠は基本夜行性だから、傘=日傘は無し。
出会ったのも「雨」の日ですし。
だから、雨の日にしか「あなた」に会えないんですよね?
で。
「アンブレラ」の時に、「欲しがってた あれが太陽」って出て来ます。
アンブレラ子(?)は、お日様が見たい。もしくは湿気るから日干しして欲しい。
で、蝙蝠くんは夜行性の体を鞭打って太陽を見に行く。
しかし、現実はアンブレラ子は雨の日にしか姿を見せる事が出来ず、蝙蝠くんは夜行性だから夜にしか現れる事が出来ない。
なかなか会えない。それは悲しい。
アンブレラ子、泣いちゃう。
蝙蝠くん、ムードを盛り上げる為に「きれいな雨だね」と言う。
しかも、アンブレラ子が求める太陽は、蝙蝠くんにとってのアンブレラ子と同じ。
つまり、
あなたはBaby私の太陽
と慰める。
でも、アンブレラ子は泣きやまない。
だから、蝙蝠くんは「夢で逢えるさ」と言う。
この二曲の中では、蝙蝠とアンブレラには意思のある存在として出て来ている。
そう仮定すれば、もしくは想像すれば、きっと抱きしめて離さないでだろうがくちづけ交わそうが問題ないんですよ。多分。
それが、傍から見れば傘にやたらじゃれつく蝙蝠に見えても。
「涙」っていうのは。「泣かないで」っていうのは。
雫の事ですかね?
いや、もうアンブレラ子は泣いてるんだよ。それでいいよ。今井さんがそう言ってるんですから。
しかし。巧妙だなと思うのです。
この詞に、アンブレラの心情が…当たり前ですが出て来ません。
だから、もしかしたら蝙蝠の妄想かもしれませんしね。
あの、「あの人と付き合えたら…ふふふ」みたいな。
駄目ですか?夢がないですか。そうですか。
途中、なんか色々端折って書いてるんで意味が分からないと思いますが、私もよく分かりません。
【2009年6月27日 追記】
上記以外に、別の角度から妄想している文章もありますので、宜しければ以下のリンクもご覧になってみてください。
天使は誰だ
これ、ライブで合わせるの大変そうですね。
今井さんからスタートして、星野さんが入って、で、樋口さんヤガミさんが同時ですよ。
ずれたら大変ですね。
この曲は、後半がすごく好きです。なんですか。なんと言えば良いのか分からないんですが、涙線にくるメロディというか演奏というか曲?
この曲で、今井さんが歌うじゃないですか。
―オレは夜で オレはSHOOTING STAR―
で、その後で櫻井さんが歌いますよね。
オレは夜 オレはシューティングスタア
ココ良いな。なんでかな?
さて、今回は歌詞の中で「リボルバー」がわらわら出て来ますが、それはちょっと置いておいて。
いつ頃からか、今井さんの歌詞の中に「ルシファー」が出て来るようになりましたね。
今まで感想文を書いていて、この「ルシファー」にはちょっとしか触れてなかったので、この際wiki先生に頑張ってっもらいます。
ルシファー(wiki先生)
ルシファー(Lucifer)とは、キリスト教の伝統で、サタンの別名とされる。(イスラム教ではイブリースに相当)
「ルシファー」は英語からの音訳で、その他日本では、ルキフェル(羅)、ルシフェル(西 Lucifer, 葡 Lúcifer)、ルチーフェロ(伊 Lucifero)などとも表記される。
Lucifer はもともと、ラテン語で「光を帯びたもの」(lux 光 + -fer 帯びている、生ずる)を意味し、キリスト教以前から「明けの明星」を指すものとして用いられ、オウィディウスやウェルギリウスなどの詩歌にも見られる語である。
無論、ヘブライ語の旧約聖書にも、ギリシャ語の新約聖書にも使われてはおらず、元来は、サタンや堕天使といった伝説と一切無縁のものだった。
「明けの明星」と「オレはSHOOTING STAR」。SHOOTING STARは「流れ星」ですが、意味深な。流れ星も「光を帯び」てますからね。
まず、「ジョン」。
天使は誰かと問う前に、「ジョン」は誰かを問いたいですね。
まず、「天使のリボルバー」にあります「モンタージュ」で「疑惑のオズワルド」が出て来ました。
「疑惑のオズワルド」は、おそらく「闇より深い闇」の主格化…というか代表みたいなものとして出て来たんかな~と思ったんですよ。
オズワルドといえば、ジョン・F・ケネディで、「ジョン」か。
このアルバムの「Jonathan Jet-Coaster」の「ジョナサン」、つまり「ジョン」か。
それとも、世界中の「ジョン」か。つまり不特定多数の事を言っているのか。
不特定多数の事かな。
続きまして、「無差別 ロザリオ」は、ロザリオが十字架だから無差別に亡くなったって事か。
「夢幻」と「無限」もいいですね。かけてあるんですし。
この詞は、すごく今井さんらしいです。
皮肉が利いているのに、優しいと言いますか。
皮肉というのは、「天使のリボルバー」のインタビュー中にも出て来ますけど、「天使」はもともと神様の御使い。そんな存在が銃を持ってたらイカレテる。
で、この曲の歌詞にも大量に出て来ますが、
堕天使の群れ 傷で埋め尽くす
闇に這う天使たち
全然まともな天使がいない。
「ジーザス」も「ライ麦畑でイキっぱなし」で役に立たない。
でも、
堕天使 人で無しルシファー 林檎を食べてトロけちゃった
…んです。単純に読むと、ルシファーが、つまり悪の親玉が林檎を食べてトロけちゃった。
この林檎は何か。
アダムとイヴが食べたのは「禁断の実」です。
これ、一説には「知恵の実」…つまり「林檎」と言われています。
食べた二人は己の姿が全裸である事に気付き、神との謁見の時に隠れてしまいました。
裸でいる事が「恥ずかしい」と思ったからです。
で、これを食べさせたのは誰か。
「蛇」です。
この蛇。サタンが変化したものと言われますが、「ルシファー」の所を読みますと、サタンはルシファーと同一視されているんですね。
これは諸説あるので、やり過ぎると話が今以上に逸れてしまいます。だから、突っ込まないようにします。
「ルシファー」が食べさせたその実を、「ルシファー」が食べた。
どうなっちゃうんですかね?「愛」に目覚めてトロけちゃうんでしょうか。
優しいと申しましたのは、その部分なんですが。
希望が無いけれど、救いは用意してあるような感じ。
何言ってんだか分かりませんが。
これって、結局は今の世の中の歌?
戦争とか紛争とか、そう言った。
あとですね。
罪と罰で あげようか
ここが未だに分かりません。
「罪と罰」『を』「あげようか」ではないんですよね。
あげる。
あげる?
上げる?
揚げる?…カラッと。
「上げる」という事にして、何を上げるんですかね?
これは、もうちょっと考えてみます。
【2009年6月27日 追記】
未だに「罪と罰であげようか」の意味が分かりません。
考えられる可能性としてなんですが、今井さん語録(?)の「アゲアゲ」という意味での「あげよう」なのか、「罪と罰」で何かを上げようかといったところなんですが。
もうちょっと、考えてみます。書いてから二か月経ってますけども。
また、「天使は誰だ」に登場する「ジョン」に関しましても、色々考えて挫折した文章を掲載させて頂いております。
宜しければご覧くださいまし。
HEAVEN
ミディアムテンポの曲です。なんですかね、「RHAPSODY」と「die」と「鼓動」を程好く足した雰囲気です。
今回、今井さんが「キュイ~ン」してます。
前回はそれがなかったですから、これ聴くと「ああ、今井さん」だなと思います。
リズムはすごくシンプルです。曲そのものがシンプルだからなんでしょうか。
聴きやすい曲ですね。正直、最初に聴いた時はいまいちパッとしませんでした。
良い曲ではあるんだろうが、何度も聴いてしまう程の曲かどうか。
この点が引っ掛かったんですが、3回目にしてじわじわ胸に来ました。
何度でも聴きたくなります。
歌詞についてなんですが、単純な愛の歌のようでいて、やっぱり櫻井さんらしく一筋縄ではいかないようです。
聴きこんでないですし、今、しばらく歌詞を眺めていたんですが、「生きる」ってことなのかな?と思いました。
いや、全ての命って書いた方がいいんでしょうか。
人も世界も生きている、命を持っている。そんな印象です。
胸に咲いた 赤いカーネィション
胸に挿した 白いカーネィション
上記の歌詞について、少し考察してみます。
まず、「カーネィション」は…花?カーネーションではなく?
花といえば花言葉。ということで調べてみました。
赤…「真実の愛」「情熱」
白…「純潔の愛」「尊敬」
うん。確かに。
しかし、「赤」は胸に咲き、「白」は胸に挿すのは何故ですか?
カーネーションと言えば、「母の日」でございます。
「母の日」になぜ、カーネーションを贈るのか、調べてみました。
「母の日」(wikiより)
母の日(ははのひ)は、日頃の母の苦労を労り、母への感謝を表す日。
日本やアメリカでは5月の第2日曜日に祝うが、その起源は世界中で様々であり日付も異なる。
例えばスペインでは5月第1日曜日、北欧スウェーデンでは5月の最後の日曜日に当たる。
イギリスにおける起源は17世紀の「Mother's day」「Mothering Sunday」(奉公中の子ども達が年に一度、教会で母親と面会出来る、復活祭のちょうど40日前の日曜日)にまで遡る。
アメリカでは南北戦争終結直後の1870年、女性参政権運動家ジュリア・ウォード・ハウが、夫や子どもを戦場に送るのを今後絶対に拒否しようと立ち上がり「母の日宣言」(Mother's Day Proclamation)を発した。
ハウの「母の日」は、南北戦争中にウェストバージニア州で、「母の仕事の日」(Mother's Work Days)と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するために地域の女性を結束させたアン・ジャービスの活動にヒントを得たものだが、結局普及することはなかった。
ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、その娘のアンナは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈った。
これが日本やアメリカでの母の日の起源とされる。
ジャービスの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、翌1908年の5月10日には同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。
アンナは参加者全員に、母親が好きであった白いカーネーションを手渡した。このことから、白いカーネーションが母の日のシンボルとなった。
アンナ・ジャービスは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案。
1914年に「母の日」はアメリカの祝日になり、5月の第2日曜日と定められた。
日本では、昭和時代に皇后(香淳皇后)の誕生日である3月6日(地久節)に行われていたが、1949年ごろからアメリカの例に倣って5月の第2日曜日に行われるようになった。
という事です。ちなみに、カーネーションにまつわる話をもう一つ。
十字架に架けられたキリストの為に流した聖母マリアの涙が姿を変えたもの、とも。
しかし。何故に「カーネーション」でなく「カーネィション」なのでしょうか。
いや、「カーネィション」が間違いというわけではないんですよ。そう言う人もいますから。
ん~。インタビュー読んでないから分からないんですが、この歌詞全体が、「生きる」という事をテーマにしていると思います。
対の歌詞が頻繁に出て来ます。
「生まれゆく」「腐りゆく」「翳りゆく」「狂いゆく」
単純に、「赤」のカーネィションが胸に咲くのを「生まれる」とし、「白」のカーネィションを「死ぬ」と位置付けると、なんと言いますか。「輪廻」を思い出します。
「生まれて死ぬ」というのは、全てに対して起こる事ですから。
カーネィションはその象徴かな~と思うわけです。
ほら、「輪廻」って「輪」を「廻」ると書くじゃないですか。
「生まれては死ぬ」という「輪」を廻るんです。
その中で、「君」がどのように生きるのか、人がどのように生きるのかっていう歌だと思うのです。
「輪廻」って「リインカーネーション」と同一視(実際は諸説ありますが)されてますしね。