■東京の軽井沢 桜新町
煉獄杏寿郎の出身地、世田谷の桜新町は、明治末期までは水利が悪くて、表土層も固く、耕作地に不適だったため、ひっそりとした田舎の村でした。駅前通りは、かつて大山街道と呼ばれ、江戸期は関東各所から相模国の大山阿夫利神社への参詣者が通った古道で、1907(明治40)年に玉川電気鉄道、渋谷―三軒茶屋間が開通すると、大山街道の旅人や地元の人々の足となり、路面電車開通とともに電気も引かれたため、生活環境も近隣の村町に比べると現代的なものでした。しかし、この頃の鉄道は大雨が降ったりするとすぐ冠水して運行できなくなるなど、日常の通勤に使用できるほどには発達していなかったようです。また、玉川電鉄の株主、東京信託株式会社(現日本不動産)が日本初の宅地開発を始めます。東京信託株式会社は1911(明治44)年から農家を個別訪問して約7万坪を買収し、うち5万坪、183区画を都心の軽井沢と銘打って1913(大正2)年から富裕層に向けた鉄道沿線型の高級分譲住宅地として開発・販売したのでした。平均面積274.5坪と広い土地、高台で景色が良く、玉川近くで心地よい風が吹くということで、当初は別荘地としての顔を持ちました。週末にゴルフを楽しみ、都会の喧騒や埃っぽさを離れ、静養や余暇を過ごす等、ステータスの為にこの土地に住まうのが当時の流行でもあり、世田谷は駒沢公園や等々力渓谷ではゴルフが楽しめ、歓楽街のある二子玉川では多摩川で川遊びをしたり、鮎料理を味わうことも出来たため、別荘地として人気のある土地でした。現在の桜新町駅の南側、桜新町1丁目から深沢7・8丁目は呑川に流れ込む湧き水が多く、渓谷のような雰囲気だったと言います。自然の山林と湧き水を利用して良質なタケノコが生産され、呑川付近で採れる深沢産のタケノコは市場でも高値で取引されていました。また、特に見晴らしの良い崖線付近は人気で、財政界の要人の別荘が並んでいたと言います。著名人、高級将校も移り住み、高級住宅街へと発展していきました。
■桜の名所 桜新町
桜新町の主要な3本の道路沿いには4~5mの間隔で1000本近い桜の木が植えられ、雨の日でも傘が要らないとまで言われる程の桜の名所でした。桜新町の名もこの桜並木に因んで付けられたものです。
参考HP:『東京さんぽ』