シティボーイだった我妻善逸② | 徒然探訪録

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シティボーイだった我妻善逸②

ー明治後期の棄子の実態と新宿・牛込界隈の様子ー

 

■我妻善逸の出身地 明治・大正期の牛込界隈

①牛込駅の開業

『いや汽車だよ 知らねぇのかよ』

『いや汽車だって言ってるじゃんか 列車わかる?乗り物なの 人を運ぶ この田舎者が』

 

我妻善逸の出身地とされる牛込。牛込駅は1894(明治27)年に甲武鉄道線の駅として開業しました。現在の飯田橋西口付近にあたります。JR中央線の前身である甲武鉄道は新宿から八王子の間をつなぐ路線でした。1904(明治37)年には御茶ノ水駅まで完成し、四ツ谷からの停車駅は四ツ谷駅―市ヶ谷駅―牛込駅―飯田町駅―水道橋駅―御茶ノ水駅、現在は牛込駅と飯田町駅は廃止され、両駅の中間に飯田橋駅があります。この牛込駅の開業に伴って急速に発達し、この界隈は東京有数の繁華街として賑わいを見せるようになりました。

 

②娯楽と文学の街・花街のあった神楽坂

『惚れた女に別の男とかけおちするための金を貢がされて借金まみれになった俺を助けてくれたしね‼』

『やだ可哀想‼ 伊之助女の子と仲良くしたことないんだろ 山育ちだもんね 遅れてるはずだわ あー可哀想‼』

 

我妻善逸の出身地牛込は娯楽と文学、花街の色めいたかおりが漂う神楽坂にほど近く、 明治・大正期には牛込駅から神楽坂の入口まで牛込見附の坂の隣に通路と橋があり、坂を通らず行き来することが出来るようになっていました。地蔵坂付近は江戸時代から『藁店(わらだな)』と呼ばれていて、『牛込藁店亭』という江戸時代から人気の寄席があり、夏目漱石も通ったと言われています。『牛込藁店亭』は1891(明治24)年に改築され、『和良店亭』と改称しました。さらに1906(明治39)年には『牛込高等演芸館』と改築・改称され、本格的な舞台のある洋風な2階建てだったと言います。また日本初の俳優養成所である『東京俳優学校』が開設されたのもこの地でした。明治後期から大正初期には映画館の開業が続いた地域でもあり、1908(明治41)年には『文明館』、1914(大正3)年に『牛込館』、1915(大正4)年には『羽衣館』が開業しています。『金色夜叉』を執筆した尾崎紅葉や坪内逍遥、『高野聖』の泉鏡花らもこの界隈に住み、泉鏡花夫人の伊藤すずは桃太郎という神楽坂の芸妓でした。

また、我妻善逸の出身地牛込にほど近い神楽坂は新橋、赤坂、芳町、向島、浅草と並んで東京六花街の一つとして栄えてきました。江戸期の神楽坂界隈は武家屋敷として利用され、寺町が形成されており、善国寺と行元寺の門前は岡場所として知られていました。明治になると空き家となった武家屋敷跡に芸妓置屋や料亭が入り、神楽坂花街の原型をつくります。花街としての成長は続き、関東大震災以降は震災での被害が他地より軽微であったため、東京中の花街から焼け出された芸妓たちが集まって待合茶屋300軒という東京市中最大の花街となりました。我妻善逸の出身地牛込近くの神楽坂には、現在でも4軒の料亭が残り、20名程の芸妓さんが在籍しています。

 

参考文献:『神楽坂花街における町並み景観の変容と計画的課題』 松井大輔・久保田亜矢著

参考HP:三井住友トラスト不動産 『このまちアーカイブス』

     『ちくわ おでかけ情報』

     『神楽坂ぶらぶら』

     『東京坂道ゆるラン』