
▲にんべん『日本橋だし場』のぬれおかき+おだし ¥200
『にんべん』のフレッシュパックやつゆの素は拙宅の食卓にも欠かせないものですが、その創業は徳川五代将軍綱吉の時代にまで遡ります。『にんべん』一代目伊之助はその商才を認められ、若くして頭角を現しましたが、それを妬まれて周囲とうまくいかず、奉公先を退職せざるを得ない状況にまで追い込まれてしまいました。しかし、伊之助はあきらめず、日本橋四日市の土手蔵に戸板を並べて、鰹節と干物類の商いを一から始めます。伊之助はわずか五年で二百両もの利益を上げ、これを元手にこの当時江戸最大の塩干肴問屋街だった小船町に店舗を移して、鰹節問屋を開業、名は高津伊兵衛に改め、屋号は『伊勢屋伊兵衛』としました。暖簾印は店名の『伊勢屋』と店主の名前『伊兵衛』の『伊』を取り、人偏の『イ』に、商売を堅実にするという意味を込めたカネにんべん。伊勢屋はたちまち『にんべん』という愛称で人々に親しまれていきました。『にんべん』は信頼ある『現金掛値なし』の商売を貫いて人々の支持を得、関東大震災までの約200年間火事の被害を被ることもなかったと言います。また、三代目の伊兵衛は1760年に起きた宝暦の大火の折、被災した人々のために鏡餅を配布し、その功績を称えられて、福岡藩主から『二重石餅』の紋を下賜されました。外部から迎えた六代目は類稀なるアイデアマン、世界初と思しき商品券制度を考案したのもこの六代目です。銀製『イの切手』、鰹節の形をした銀製の薄板だったといいますが、これを店に持って行くと鰹節と交換してもらえるというシステムでした。

▲永倉新八属する靖共隊が『にんべん』に収めた証文
そして幕末。八代目伊兵衛は勘定奉行池田頼方から御用商人に取り立てられ、『徳川五人衆』にも選出されて、苗字帯刀を許されました。この頃、幕府の経済はこうした大店の献金よって支えられており、長州征伐においても『にんべん』は一万両もの負担を余儀なくされています。永倉新八属する靖共隊も幕府方でしたので、軍資金を無心するためにこの『にんべん』を訪れました。今も残る覚書は、『にんべん』側から靖共隊に『お金を借りていただきたい』という体で書かれており、靖共隊はこの時『にんべん』から三十両を軍資金として受け取っています。しかし、八代目伊兵衛が投資せざるを得なかった江戸幕府は滅亡への道を進んで行きました。幕府方の莫大な貸付金や売掛金は回収不能となり、経営も危機的な状況を迎えましたが、八代目伊兵衛は優れた経営手腕で新政府との関係を良好に取り持ち、激動の時代を乗り越えます。その後も日露戦争において鰹節の納入を一手に任されたり、渋沢栄一や岩崎家、三井家といった大財閥からも贔屓に預かり、伝統の味を守りつつ、時流に合わせた新商品の開発にも意欲的に取り組んできました。現在に至り、『にんべん』の商品は日本の食卓に欠かせない存在となっています。
参考文献:『江戸東京幕末維新グルメ』 竹書房 三澤俊博著