北条氏政 偉大な父の背を追って | 徒然探訪録

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 22歳で家督を譲り受け、北条家の長となった氏政。この時、父氏康は45歳、まだまだ氏康の発言力も強くはありましたが、父に習って民意に重きをおいた政策を行い、その若き能力を発揮します。氏政は元来、家族や家臣を大事にする性分でもありました。家の事情でどうしても離縁しなければならなかった妻、黄梅院の遺骨を後に引き取り、懇ろに葬ったことからも氏政の人柄が偲ばれます。そんな氏政だったからこそ、氏照、氏那、氏規、三郎景虎ら兄弟も彼を支持し、氏政が苦しい局面に追い込まれた時、危検な戦場を引き受け、あるいは人質として敵陣に入っては、矢面に立って闘ってくれたのです。氏照は滝山城・八王子城城主として活躍し、武勇に優れ、外交面でもその手腕を発揮しました。鉢形城主氏那も、三増峠の闘いをはじめ、多くの戦場を闊歩し、武功を挙げた人です。氏規は幼少期、北条家の為、今川家へ人質として送られ、この頃同様に徳川家を守る為に今川家の人質となっていた徳川家康と同じ時期を過ごした経験も生かして、外交面で大きな役割を果たしました。三郎景虎も一族や領民を守る為、上杉家との越相同盟を締結させるべく、その人生を捧げます。氏政の統治は一族皆の命に支えられたものでした。

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  永禄4年(1561)には、上杉謙信率いる10万もの大軍に小田原城を包囲される危機も迎えましたが、父氏康の導きもあり、過酷な籠城戦を耐え抜いて上杉軍を退けさせます。氏政はその数年後、父氏康の竹馬の友であった北条綱成とともに宿敵だった里見軍も打ち破って、上野の厩橋城を奪還し、一気に上総(今の千葉県市原市周辺)にまで勢力を拡大していきました。そしてまた、武田信玄も北条・今川と交わしたはずの同盟を一方的に破棄し、自分の息子の命を懸けてまで駿河の今川領侵攻を押し進めていきます。氏康は、信玄のようなこういったやり方を最も嫌っていましたので、武田家と北条家の対立は益々深まるばかり…。長男氏政に嫁いでいた信玄の娘、黄梅院にもその厳しき目は向けられ、そのような男の娘とはすぐに離縁するようにと、氏政に強く迫ります。それでも黄梅院を愛していた氏政は必死で氏康に食い下がりましたが、頑なな父の心を動かすことはとうとう出来ず、哀しみを堪えて彼女に別れを告げたのでした。部下の裏切りからせっかく手にした上総の地も再び里見家に奪還されしまった氏政に追い打ちをかけるような愛妻との別れ…。武田家との闘いもさらに激しさを増していきました。そして、武田家の侵攻を食い止める為に、敵対していた上杉と同盟を結び、三郎景虎が人質として上杉家に送り込まれます。そのような中起きた三増峠での闘いで、北条家は手痛い敗北を喫し、益々武田家の駿河侵攻を許してしまう形となってしまいました。上杉家との同盟が功を奏さなかったからか、氏康は武田家と再び同盟を結ぶように遺言したと伝えられ、氏政は父の遺言通りに、武田家との同盟を復活させて、妹を勝頼に嫁がせます。離縁せざるを得なかった愛妻、黄梅院はもうすでに亡き人となっていましたが、武田家との関係が修復し、その遺骨を引きとることが出来た氏政は、彼女を手厚く葬りました。そんな中、上杉謙信が亡くなり、その相続をめぐって御館の乱が勃発します。上杉家に人質として送られていた三郎景虎と謙信の甥である景勝がその家督を争って戦を起こしたのです。氏政は自身が対陣中で身動きが取れなかった為、同盟を結んでいた勝頼に三郎景虎への援軍を頼みましたが、勝頼は金品を受け取って景勝とすでに通じていた為、その申し入れを無視します。氏政はそのような勝頼の態度に激怒し、武田家との同盟を再び破棄して、兄弟の中でも武勇に優れた氏輝と氏那を援軍として三郎景虎の元に向かわせましたが、季節は冬、雪に阻まれ、春まで時期を待たねばなりませんでした。春を迎え、氏輝、氏那は早急に兵を進めましたが、景勝の懐刀直江兼続らの猛反撃に遭い、援軍を送ることは叶わず、三郎景虎を孤立させて自刃に追い込んでしまうこととなります。氏政はこの痛ましい弟の最期を受けて、上杉家との同盟を破棄し、今度は徳川家と同盟を結んで来たるべき武田家との闘いに備えました。この時期強い勢力を持っていた織田家との関係も深めようとしましたが、北条家は織田家から冷遇され続け、織田家が勝頼討伐の為に出兵した甲州征伐にも、北条家は織田家に臣従を示して出陣しましたが、織田家からは深い連携を拒まれて主だった軍事行動にも参加させてもらえず、氏政は勝頼と共に自刃に追い込まれていた妹の命を助けることも出来なかったのです。自分が織田家に臣従することを選んでしまったが為、兄弟や臣下が命を懸けて自分に託してくれたものが容赦なく奪い取られていってしまう現実に、氏政は堪らず自身の命を懸けて信長に関東統治の許しを嘆願しましたが、信長がそれを聞き入れることは生涯ありませんでした。

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 そして、そんな信長も腹心の部下であったはずの明智光秀の謀反に遭い、本能寺にて横死。信長の死で空白となった武田遺領を巡って周辺の大名たちが一斉に動き出します。北条家もこの一連の闘いに参加して領国拡大を狙い、天正壬午の乱や若神子の闘いで徳川家とも度々抗争を繰り返しました。しかし、黒駒合戦でも敗れ、旗色の悪化した北条家は、当主氏直が家康の娘を正室として迎え、一端徳川家と和睦して形勢の立て直しを図ります。この一連の闘いで一気に勢力を伸ばしたのが豊臣秀吉で、豊臣家に臣従する大名も増えましたが、徳川家康もそのような内の一人でした。家康を獲り込んだ秀吉は徳川家と同盟関係にあった北条家にも臣従を求めます。秀吉は氏政と氏直に上洛を命じましたが、父氏康の堂々たる姿を見続けてきた氏政は頑なな態度でこれに応じようとはしませんでした。家康は徳川家を守る為に何としても秀吉との良好な関係を築かねばならず、今川家で同じく人質として過ごした幼馴染の氏規を頼って上洛させ、秀吉の説得を図ります。人質として過ごした経験を持つ氏規はこうした外交の大切さを良く心得ていましたので、北条家を守るために家康の意を受けて上洛し、秀吉に拝謁して豊臣家への臣従を表明したのでした。しかし、武功を挙げ、領国を拡大することで家の為に尽くしてきた氏照や氏那には豊臣家への臣従など考えられず、氏康の背中を追い続けた氏政もまた豊臣家との徹底抗戦を主張します。結束が固かった兄弟内で意見が対立する中においても氏政はこの意志を曲げることはなく、豊臣家との闘いに備え、軍備増強を推し進めていったのでした。領国奪還を巡って真田家とも確執が続き、北条家の家臣たちも確約通りの地を中々得られず、次第に不満を募らせていきます。そんな中起きたのが、猪俣那憲による名胡桃城奪取事件でした。これが、秀吉の公布した『惣無事令』に反したとされ、秀吉の逆鱗に触れてしまうこととなります。秀吉は全国に置いた配下の者にくまなく北条討伐を命じたのでした。北条家は豊臣家率いる連合軍に総攻撃を仕掛けられてしまいます。武勲に誉れ高かった氏那や氏照の守った城も次々に落とされていきました。そんな中秀吉はその才能に畏怖しながらも大きな信頼を置いていた軍師黒田官兵衛を使者として遣わし、北条家との交渉にあたらせます。父氏康の呪縛から逃れられなかった氏政、八王子城での無惨な民の死を目の当たりにして辛酸を舐めた氏照、自らの指示が最愛の妻の自害を招いてしまった氏那らの冷え切った心にはとうとう届きませんでしたが、官兵衛は粘り強く交渉を続け、彼の朴訥な誠実さは現北条家当主である若き氏直の心を少しずつ動かしていったのでした。氏政はじりじりと悪化する戦況の中で、かつて父氏康と共闘し、苦しかった籠城戦を経てこの小田原城を守り抜いたことを誇りに思います。父のそのような姿を見て氏直は、氏政の父への思いを、家臣や領民たちの幸せを、自らの命を懸けて守る決意を固めました。氏直は自らの切腹と引き換えに、家臣の助命嘆願をして、秀吉に降伏したのです。氏直の家族や家臣、民を思う無垢な気持ちは秀吉の心を動かし、北条家の配下にあった家臣や領民はその命を守られました。しかし、闘いの首謀者であった氏政と氏照の罪は許されることはなく、切腹を言い渡され、氏直も当主としての責任を追及されて高野山での謹慎処分を命じられます。こうして北条家の関東支配の夢は断たれてしまいましたが、後の天下人となった家康と親交が深かった氏直の叔父、氏規が家督を継ぎ、幕末まで北条家の名を存続させました。一族同士の争いがほとんど記録されていない北条家。家族や人と人との絆を大切にしていた一族だったからこそ、弱さや過ちを含め、その人間味溢れる温かさを支持する人がいるのかもしれません。