北条早雲と明応の大地震 | 徒然探訪録

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  伊勢新九郎盛時こと北条早雲の出自につきましては、室町幕府政所執事、伊勢氏の一族だという説が有力です。『蔭涼軒目録』と岡山県井原市に所在する法泉寺の古文献に記された申次衆の『盛時』と新九郎盛時が同一人物とされるもので、新九郎は備中伊勢氏から京都伊勢氏の伊勢貞道の元へ養子に入ったと言われています。
 早雲は今川家に仕えていましたが、そこで起きたお家騒動を見事に解決し、その調停の功として、駿府興国寺城を与えられました。その後駿府に定着、当時駿府近くの伊豆を支配していた幕府側堀越公方の跡目争いに乗じてこれを滅ぼし、伊豆平定への足掛かりを作ります。この頃起きたのが、明応の大地震です。当時の関東域の動向をみることが出来る『鎌倉大日記』という記録に『八月十五日鎌倉由比浜海水到千度檀水勢大仏殿破堂舎屋溺死人二百余、九月伊勢早雲攻落小田原城大森入道』と記されており、明応4年に起きたこの相模湾地震の混乱に乗じて小田原城を奪取したとも考えられます。この大地震が起きたとき、元々小田原を支配していた大森氏は自身も被害甚大で、同じく被害を受けて苦しむ民衆に何の対策も講じられなかったのに対し、早雲は大森氏よりもこうした民衆へのケアを怠らなかった為、小田原城の奪取にも成功出来たのでしょう。そして再び大地震が東海から四国沖を襲った明応7年、この混乱に乗じて深根城を攻め、この時期の伊豆で唯一早雲に抵抗していた関戸氏を滅ぼし、伊豆平定も収束をむかえることとなります。伊豆を手中にした早雲は、興国寺城を今川家に返還し、韮山城を築いて居城としました。そして、伊豆平定に至るにあたり、領内各所に三カ条の禁制の立札を設置して治安維持に努め、流行病にかかった領民の治療にあたったと言います。三カ条の禁制とは①空き家に入って諸道具に手をかけぬこと、②金銭に相当するものをどんな物でも奪ってはならぬこと、③国中の侍ならびに土民に至るまで、住んでいるところから立ち去らぬこと、三カ条にそむいたときは、その稼業をやめさせてその家に火をつける、というもので、大地震の混乱に乗じた犯罪を抑止するための施策だと考えられるでしょう。またこのような逸話も伝えられています。早雲自らが領国を視察した際、家ごとに病人達ばかりがいるので、訳を尋ねると、致死率の高い流行病が蔓延し、身動きの取れない病人を残して他は山奥へ避難したとのことだったので、早雲は病人達に薬を与え、部下の兵士に看病させました。病気から回復した人々は家族とともに早雲に大変感謝し、元の棲家に戻って稼業に一層精を出したと言います。これは、早雲が津波や大地震の被災者に今までの領主よりもきちんとしたケアを行ったのが、このような逸話として残ったのでしょう。また、税の徴収についても、以前の五公五民から四公六民に軽減しています。このように被災者の負担を軽減するための税制改革を行うなど民衆の支持を得られる方策を講じては実施し、時間をかけて民意を集めてきた結果、伊豆平定に至ったのです。

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  早雲が小田原城を奪取した際に用いた計略は『火牛の計』だったと伝えられています。『火牛の計』とは角に剣を、尾に松明をくくりつけた牛を敵陣に放つという戦術で、古代中国の戦国時代、斉の田単が敵国の燕軍を打ち破る際に用いたと言われていますが、突進する牛の角で敵兵を次々と刺し殺し、尾に付けた松明でそこら中に火をつけながら暴れ回らせて大火災を起こすというものです。早雲の時代には、牛の角に松明を付けて走らせ、少ない軍勢を多く見せるために使われた戦術だったようです。木曽義仲が倶利伽羅峠の戦いで用いたのも『火牛の計』だと言われていますが、義仲はこの戦いで見事奇襲を成功させ、勝利を収めたとされています。このような故事になぞらえて、国取りの武勇伝にはよく登場する戦術のようで、早雲の小田原城奪取にまつわる逸話もそのような武勇伝の1つだと考えられます。
  早雲は当時小田原城主だった大森藤頼と懇意になるよう努め、藤頼が隙を見せたところで、鹿狩りを理由に自分の勢子(狩猟の時に獲物を追い込む役割の者)を藤頼の領国に入れてもらえるよう頼みました。進入させたのはもちろんただの勢子ではなく、自軍の屈強な兵士だったのですが。この勢子は風魔の手の者だったという説もあります。(←北条氏の大河実現するなら風魔絡んだ方が絶対面白くなりそうですよね。小太郎のビジュアルが何故かEXILEのHIROさんで脳内変換されてしまいましたが…。)勢子に扮した兵士達は闇夜に乗じて『火牛の計』を決行、尊敬する父の一周忌を慎んで思い出に浸りながら酒を飲み、油断していた藤頼を謀って、早雲は小田原城を奪取してしまったのでした。
   また、伊東市内には幾つか『赤牛伝説』というものが残っていて、実はこの赤牛は土石流のことを指しているのではないかという説もあります。河川治水の工法にも『聖牛』というものがあり、牛はしばしば洪水を示唆する言葉として使われていたようです。『火牛の計』の逸話も、大津波の直後に小田原城へと攻め入った早雲の姿が被災した人々の目にはそのように映り、先述のように言い伝えられてきたのかもしれません。

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    北条氏は五代の間、家督争いを起こしていません。これはこの時代では非常に珍しいことです。早雲は伊豆に進出する際にも、伊豆平定に至る際にも家督争いで起きた混乱を見逃さず、虎視眈々と領国拡大を図っています。また、伊豆平定においても、小田原城奪取においても、自身が被災者となると民衆に十分なケアを与えられず、ますます彼らの暮らしを貧しくしては民意を得られなくなり、自滅していった領主の姿を目の当たりにしてきました。民衆から支持され続け、家督争いを起こさず、敵につけ入る隙を与えない、それこそが家督を存続し、領国拡大を実現するのには不可欠なことだと理解して、それを実行してきた一族だったのだと思います。