『徒然探訪録』は新選組誕生150周年記念事業『誠の絆でつなぐ日本の心と元気』を応援しています!! | 徒然探訪録

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▲小石川 傳通院

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 文久3年(1863)年、京都での将軍警固・過激な尊攘浪士の取り締まりを強化するため、新選組の母体となった浪士組は結成されました。浪士とは、『尊王攘夷、尽忠報国といった有志を抱く者』を意味します。浪士組結成当時は約250名がこれに参加、それぞれの思惑を胸に上洛を果たしたのでした。


新選組ファン中山道歩く 11月出発 茨城玉造隊提案、復興へ 誠 の絆


 幕末に活躍した新選組誕生から150年。結成に関わった浪士たちが江戸から京まで歩いたコースをたどる「誠の絆でつなぐ日本の心と元気」が11月に始まる。行方市で地域活性化に取り組む「新選組!茨城玉造隊」が主催する記念事業の一環で、週末を利用して中山道を歩き、来夏の京都到着を目指す。


新選組を結成した浪士は1863(文久3)年、京都に向かう将軍・徳川家茂を警護するために江戸を出発。16日間かけて京に入った。

参加者らはこのコースをたどる。東京都内で「全国新選組サミット」が開かれる11月16日に、文京区内の寺院・伝通院を出発。土日曜を利用しながら計16区間、約524キロを歩く。1区間はおよそ12~45キロで、年内は追分宿(長野県軽井沢町)までの6区間、約160キロを歩く予定だ。

「玉造隊」がこの取り組みを提案したのは2011年11月、岩手県宮古市で開かれたサミットの席上。東日本大震災から間もない時期、「未曽有の災害から立ち直ろう手を携える人々と、新しい国を作ろうと奮闘した浪士たちの姿が重なった」と、記念事業実行委員長で市商工会事務局長の飯田正義さん(58)は振り返る。

当初は、全国の愛好者団体が1区間ずつ歩いてリレーする構想だったが、日程調整が難航。今年5月まで話し合われた結果、玉造隊を中心に、可能な区間でほかのグループも加わる形になった。

京都市の壬生寺に到着するのは、来年8月18日の予定。御所の警備などに当たった浪士たちの活躍が認められ、新選組の名前が生まれるきっかけになった「8月18日の政変」にちなんだ。

道中では新選組隊士と同じ浅黄色の羽織をまとい、のぼり旗も掲げる。訪問先で行方や茨城をアピールする機会も設けるつもりだ。飯田さんは「幕末も震災後も、みんなが協力しながら新しいものをつくっていく時代。当時と同じ行程を歩くことで、伝えられることがある」と力を込めた。

玉造隊では中山道を一緒に歩く参加者を募集している。問い合わせは行方市観光協会TEL0299(55)1221。区間の確認はホームページhttp://tamatsukuritai.net     (2013年9月15日(日) 茨城新聞より転載)


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▲傳通院墓所内にある清河八郎墓

 
 その妻蓮も隣に眠っています。清河と蓮の出会いは、清河が友人と遊んだお座敷の席でした。清河26歳、蓮17歳の頃です。蓮はその時高代と名乗っていました。蓮という名は清河がつけたのです。『妻に遊里の女を選んだといわれるが、肉欲ではない。その高い操に惚れたからだ。色町の汚れに染まらない姿は、泥の中から清らかで美しい花を咲かす蓮のようだ。だから蓮と名づけた。』
 そして遊里の女と結婚するなどと猛反対する両親を説き伏せて蓮を妻として娶ったのでした。
 『自分には大志があるから、安穏な生活を求めるなら百姓か町人を選んだ方がよい。しかしお前が私を裏切らないなら、私は一生決してお前を見捨てたりはしない。』
 この言葉通り、清河は年若き妻に愛情を注ぎ、仲むつまじく暮らしていた2人でしたが、時代の流れに逆らうことはやはり出来ませんでした。清河は尊王攘夷の過激な運動を度々計画・実行して、幕府から監視を受けるような要注意人物となり、そのような中、酒に酔って町人を無礼討ちにする事件を起こしてしまいます。彼が起こしたこの騒動により、多くの同志が逮捕され、清河の妻ということで蓮も捕われの身となりました。清河は逃亡しましたが、蓮は清河の潜伏先を躍起になって探している役人たちにどんなに手酷い拷問を受けても、決してその口を割ることもなくけなげに耐え抜いたのです。
 ですが、一年半近くに渡る拷問にその小さな身体は耐えきれず、とうとう病気の為牢獄死してしまったとの一報が清河の元に入ります。
 『お蓮のこと、まことに悲しき、哀れのこといたし、残念かぎりなく候。何とぞ、私の本妻とおぼしめし、朝夕の回向お手向け、子どもと等しくおぼしめし下されたく、繰り言にも願い上げ申し候。私ひそかに清林院貞栄香花信女とおくり名いたし候。』
 しかし蓮の死の真相は度重なる拷問による病からの死ではなく、清河の過激な攘夷行動を疎んだ清河の出身藩である庄内藩の手による毒殺だったという皮肉なものでした。

『お前が私を裏切らないなら…』

蓮は彼のこの言葉を信じ、全てを清河のために捧げたのです。


参考文献:『新選組隊士録』(新紀元社)相川司著
『京都新選組案内』(創元社)武山峰久著