近代教育発祥の地・東京医科歯科大学 | 徒然探訪録

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▲聖橋から見たJR御茶ノ水駅

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 東京医科歯科大学には『近代教育発祥の地』の碑が建てられています。江戸幕府の頃は昌平坂学問所として、旗本や全国の藩士の子弟を集め、その人材教育にあたってきましたが、明治維新後は政府に引き継がれ、昌平学校、大学校、東京大学として発展していきました。明治5年(1872)に文部省が誕生し、明治7年には師範学校を設立、この地には『東京高等師範学校(現筑波大学)』、『東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)』が置かれ、我が国の学校教育の原点となりました。新選組隊士だった斎藤一は警視庁退職後、東京高等師範学校付属東京博物館(現国立科学博物館)の看守兼同校の撃剣師範、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛として勤務し、その妻時尾も東京女子師範学校の寄宿舎の舎監を務めていたと言います。

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▲『湯島聖堂』の仰高門

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▲『湯島聖堂』仰高門・門衛所跡

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▲『湯島聖堂』仰高門・門衛所跡 裏手

 斎藤一の勤務していた『東京高等師範学校付属東京博物館』は現湯島聖堂にあったとされており、その当時看守が詰めていたのがこの仰高門・門衛所だったそうなので、彼もこの付近を出入りしていたと思われます。

■近代教育に尽力した会津人たち
現在放送されている大河ドラマのヒロイン新島八重の夫襄は同志社を設立し、近代教育の普及に力を注ぎ、八重自身も看護婦となって女子教育の一端を担いました。新選組隊士であった斎藤一も会津人として生きることを選び、近代教育機関の看守として、その妻時尾も舎監として近代教育の場に携わっています。
敗戦・降伏という苦難を乗り越えたからこそのこのような生き方が、会津の人たちにはあったのかもしれません。

佐原盛純
 佐原盛純は江戸幕府の時代、外国奉池田筑後守の侍講となり、文久3年(1863)にはフランス渡航も果たしています。明治4年の廃藩置県後は司法省に務め、病のため明治8年に辞職し、会津若松に帰郷します。帰郷後は私塾を開いていましたが、明治11年に福島県の教員として職を得、若松町内の各学校で指導にあたり、明治15年に日新館の教授となりました。明治17年には会津中学校が設立されましたが、佐原はその最初の国語・漢文の教師となり、以後1000人以上の生徒の教育に携わりました。同年、日新館館長の中修辰頼の依頼を受け、漢詩『白虎隊詩』を作詞、生徒とともに試行錯誤の上、能を基にした剣舞を作り上げ、飯盛山の墓前にその剣舞を奉納しました。春と秋に営まれる墓前祭では、今でも佐原とその生徒たちが作り上げた『白虎隊詩』の剣舞が会津の高校生たちによって引き継がれ、奉納されています。

高嶺秀夫
 高嶺秀夫は藩校日新館に学び、藩主松平容保の近習として戊辰戦争では容保とともに籠城戦に参加、降伏後は東京で謹慎生活を送りました。赦免後は、18歳で福沢諭吉が設立した慶応義塾に入学して英学を学び、22歳の時にはアメリカに留学してペスタロッチの開発教育を学んでいます。ペスタロッチの教育理念は家庭での教育の大切さや、学校教育においても家庭的な温かさを感じられることの必要性を説いています。道徳的な人間が育まれるのは健全な家庭生活の中であり、そのために子どもたちに経済的な自活の能力を身につけさせる必要があるというもので、一般階級や貧困家庭の子どもたちの教育に重点を置いています。明治維新直後の日本には正に適した教育理念だったのだと思いますし、現代においても児童虐待の起こりやすい階級層を鑑みれば、見直されるべき教育理念なのかもしれません。
 帰国後は、古い体質の東京師範学校の改革に着手し、開発教育の紹介と普及に努め、東京師範学校の校長や女子高等師範学校校長等を歴任しました。
 また、当時の日本は近代化を急ぐあまり、伝統美術排斥・西欧文化尊重の風潮が強くなっていましたが、日本の伝統美術に造詣が深く、浮世絵のコレクター・研究家としても著名だった高嶺は、帝国博物館(現東京国立博物館)が設置されるとその委員を務め、東京美術学校(現東京芸術大学)の校長も兼務しました。第1回文展(現在の日展)で審査員も務め、近代日本美術の保護・奨励にも大きな足跡を残しています。

山川捨松
 山川捨松は、8歳の時戊辰戦争を体験し、母とともに籠城戦に加わりました。会津藩降伏後、一家は離散してしまいましたが、わずか12歳で捨松は明治政府が派遣する日本初の女子留学生に選抜され、10年に渡るアメリカ留学を経て、日本に帰国しました。
 捨松の帰国した頃の日本は文明開化が大きく叫ばれ、西欧文化を模範とした制度や文物がもてはやされて、その最たる象徴とも言うべき『鹿鳴館』では日夜舞踏会が催され、煌びやかな社交界が華開いていました。捨松は10年に渡るアメリカ留学の間に身に付けた教養と語学力で、瞬く間に社交界の華となっていったのです。
 25歳の時、捨松は当時陸軍大臣として外国の賓客をもてなしていた大山巌に見初められ、結婚の申し入れを受けましたが、周囲はこの結婚に猛反対しました。というのも、彼女は会津の人であり、大山は元薩摩藩士でかの会津攻めの際、砲隊長として任務を遂行した人物だったからです。まさに会津の因縁の相手とも言えます。ですが、捨松は周囲の反対を押し切り、大山と結婚して、彼の連れ子3人を含めた6人の子どもを育て上げました。
 また、捨松はアメリカ留学時に看護学も学んでおり、看護婦の資格を取得していた為、日本で初めてナイチンゲールの近代看護教育を系統的に行った、有志共立東京病院(現東京慈会病院)の看護教育所の創立・近代看護教育の普及に尽力しました。さらに日本赤十字社に働きかけ、日露戦争の傷病者の為に篤志看護婦人会を発足させる等、慈善活動も行っています。

海老名リン
 海老名リンは17歳で軍事奉行海老名季昌と結婚し、季昌は戊辰戦争時会津藩の家老を務めていました。リンも夫とともに入城し、籠城戦を戦うつもりでしたが、果たせず、会津藩は降伏し、季昌は戦争責任者として江戸で蟄居の処分が下され、リンは残された家族を連れて斗南に移り住み、その日の食事にすら苦労する程困窮した生活を強いられました。後に蟄居を許された季昌と共に東京へ移住することとなり、季昌は警視庁に職を得ることが出来ましたが、リンは文明開化の波に踊る都会での生活になじめず、キリスト教に救いを求め、洗礼を受けます。しかし、夫の季昌はキリスト教には猛反対で、リンはこれを理由に離婚を迫られたこともありましたが、決してこの信仰を捨てようとはしませんでした。
 リンはキリスト教により、男女平等の思想に触れ、女性への教育機関や制度が確立されていない現状を目の当たりにし、東京基督京夫人嬌風会で会計や福会頭として活躍する傍ら、教育・社会活動にも従事するようになりました。そして、そのような活動を続けるうち、幼稚園の経営をしていた友人から声がかかり、その経営を引き継ぐこととなります。この幼稚園の経営を経て、幼児教育・女子教育を学び、実践してきたリンはそのノウハウを郷里会津若松に持ち帰り、明治26年(1893)若松幼稚園を設立させました。そしてその3ヵ月後にはこの幼稚園の片隅に裁縫の裁ち板と物差し、はさみだけの簡素な設備にたった4人の生徒からの出発ではありましたが、会津女学校を創立しています。経営は決して楽なものではありませんでしたが、海老名家に嫁いでからずっと斗南での生活をはじめ、どんな局面にあっても変わらず家族に仕えてきたリンの優しさは、あれ程キリスト教を疎んでいた季昌の心をも動かし、季昌は自らも洗礼を受けました。
 リンの設立した幼稚園は110年の歩みを経て現在に至り、女学校は今では共学化され、葵高等学校として存続しており、リンの静かな、しかし熱き教育への思いは現代にも受け継がれています。