『第9回 なめがた新選組まつり』が9月14日(土)、15日(日)に開催されます | 徒然探訪録

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来たる9月14日(土)、15日(日)に『第9回 なめがた新選組まつり』が開催されます。
15日(日)には、『法眼寺』で芹澤鴨、平間重助、お梅の追善供養も営まれますので、『法眼寺』周辺の新選組関連の史跡をご紹介致します。

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国道355号線から芹澤方面へ入っていく時にこの手奪橋を通りますが、この手奪橋にも河童にまつわる民話が残っています。

手奪橋の言われ
河童の恩返し

 昔むかし、現原の殿様が領地の見まわりを終えて屋敷に帰る途中、梶無川の橋を渡っていると馬が動かなくなってしまいました。ふりかえると子どもくらいの怪物が、馬のしっぽをつかんで川にひっぱり込もうとしているではありませんか。殿様は「村人を困らせている河童だな。こらしめてやろう」と刀で斬りつけました。河童は悲鳴を上げて川の中に姿を消しました。
 お屋敷に戻ると馬のしっぽには河童の手がぶら下がったままでした。その晩のこと、河童がしょんぼりとやって来て「私は梶無川の河童です。腕がないと泳げないし魚もとれません。どうぞ腕を返してください。」と頼むのです。かわいそうに思った殿様が返してやりますと、「私どもには妙薬があり腕をつなぐくらいわけありません。」と言って薬を傷口にぬり、ひょいと腕をくっつけました。殿様が驚いていると「お礼にこの薬の作り方を教えます。それにこれから毎日魚を差し上げます。もし魚が届かぬ時は、私が死んだと思って下さい」と言って帰っていきました。
 次の日から毎日、お屋敷前の梅の木に、魚が2匹ずつぶら下げてあるようになりました。
 ある朝、いつもの梅の枝に魚がなく、殿様は河童のことが心配で川を探させてところ、かなり上流の与沢で腕に傷跡のある河童のしかばねが見つかりました。恩を忘れなかった河童に感動した殿様は祠を建ててその霊をまつりました。
 芹沢と捻木あたりを梶無川と言います。河童から教わった傷薬は、芹沢家に代々伝わり、多くの人たちが救われました。諸国の大名から届いたお礼の書状が、今でも芹沢家に残されています。(玉造町・玉造町観光協会説明板より)


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▲芹澤鴨生家跡周辺の様子


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▲平間重助説明板設置場所

平間重助

 芹澤鴨の腹心だった平間重助は、玉造町芹澤の出身で文政七年(一八二四)と推定される。剣は、芹澤鴨に師事し神道無念流目録の腕前である。
 天保十五年三(一八四四)徳川斉昭公が水戸千波原で行った軍事訓練(追鳥狩)には、芹澤貞幹(鴨の父)に率いられて参加した三十六名の中に平間重助の名がある。文久三年二月、重助が四十歳の時、芹澤鴨と共に浪士組に参加。新選組では、副長助勤、勘定取締方として運営に参画した。文久三年九月、芹澤鴨が斬殺された夜、同じ八木邸に同宿していたが難を免れ以後消息不明になっていた。しかし、最近になって晩年は郷芹澤に戻り、明治七年(一八七四)五十一歳で生涯を終えたということが判明している。(玉造町・玉造町観光協会説明板より)

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▲芹澤鴨生家跡

芹澤鴨

 混迷した幕末が産んだ新選組の筆頭局長、芹澤鴨は、玉造町芹澤の出身である。鴨は、上席郷士、芹澤貞幹の三男として生まれ幼名を玄太と言った。十五歳の頃、郷校で医学を学んだが尊王攘夷の思想に共鳴して天狗党の前身である天狗組と行動を共にするようになる。当時の名は下村継次と名乗っていた。
 剣は、神道無念流の戸ヶ崎熊太郎に師事し、免許皆伝・師範役の腕前だった。居合でも免許皆伝の域に達していたという。
 その後、安政六年(一八五九)勅書返納を阻止するための長岡事件にも接点があったことと推測される。名前も芹澤鴨と改め文久三年(一八六三)には、清河八郎の浪士組に、同郷の平間重助と共に参加する。京に着いた浪士組のうち清河八郎らは江戸へ戻ったが、芹澤鴨・平間重助は、近藤勇・土方歳三らと共に京都に残り新撰組を結成した。筆頭局長に押された芹澤鴨は、近藤達と、京都の治安維持にあたっていた。
しかし、近藤派との対立が目立つようになり、文久三年九月十六日(十八日説有り)京都の八木邸で近藤派の土方歳三らによって斬殺された。時に三十八歳であった。墓地は京都の壬生寺にある。平間重助も同宿していたが運よく難を逃れることができた。
 芹澤鴨については、乱行のことなどが多く伝えられているが、一面ではスケールの大きい人物だったようで、永倉新八の回想録では「国家有事の時に横死したことは、国家的損害だったと心ある者の一致するところであった。」と述べている。(玉造町・玉造町観光協会説明板より)


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▲高台へと長く続く芹澤鴨生家跡の外壁


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この坂道を上ったところに芹沢城址があります。


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▲芹沢城址碑

芹沢城と芹沢旧家

常陸大掾一族である芹沢氏は、吉田氏系(水戸地方からの別れ)の玉造氏とは違う大掾本家の多気氏の末裔にあたります。南北朝時代に芹沢氏の祖となる平竜太が相模国高座郡に所領を持ち芹沢の地に館を構えたとき氏を芹沢とし、成人後は幹文と改め、良幹、高幹、望幹四代にわたり鎌倉御所に仕えました。その後芹沢良忠が常陸へ戻り館を構え、秀幹の代天文年間(一五三二~五四)に芹沢城が築かれたとされます。
 また、芹沢家は医薬の術を持つ豪族として戦国武将にも知られていました。相模国在住の時から医術と関わりを持ちながら、芹沢家四代当主範幹は京都へ赴いたとき医術を学んでおり、今に伝えられる白薬、万病円など疵の治療薬を提供していた。この医術にまつわる民話が「カッパの恩返し」の伝説となって今に伝えられています。(玉造町・玉造町観光協会説明板より)

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▲法眼寺


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法眼寺では9月15日(日)10:30より芹澤鴨、平間重助、お梅の追善供養が営まれます。


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法眼寺には芹澤家の墓所があり、芹澤鴨、平間重助、お梅の顕彰碑があります。

芹澤鴨が愛したお梅の碑

 文久三年(一八六三)、青雲の志をもって京都へ上洛し、新選組筆頭局長として勇名を馳せた芹澤鴨は、幕末の激浪に運命を翻弄され、ついに九月十六日に志半ばで落命しました。
 このとき、芹澤が愛を誓い、ともに遭難した「お梅」という女性がいました。お梅は菱屋太兵衛の妾という通説により、日陰の立場として伝えられ、永年悲哀の境遇を過ごしてきました。
 しかし、近年の調査により、菱屋太兵衛が当時独身で、町の総年寄という高い身分にあり、新選組屯所が置かれた前川家の遠戚であることが判明し、お梅は決して日陰の立場ではなく、菱屋の身内ということが分かりました。また、お梅は実家の菩提寺である京都長圓寺の総墓に埋葬されたと思われます。
 今回、郷里行方の有志によって、総墓の土を持ち帰り、芹澤鴨の顕彰碑の隣にこの碑を建立することで、お梅の汚名を雪ぎ、その土を埋葬することで、落命以来、永年離れた二人の霊が芹澤鴨の郷里で再会し、未来永劫の愛を育むことを祈念したい。 撰文 あさくらゆう 

法眼寺
住所:行方市芹沢505
TEL:0299(55)1283