慶応四年(1868)四月十二日、土方歳三属する旧幕府軍前軍はこの小金宿に宿陣したと言われています。『谷口四郎兵衛日記』に『同十二日、小金ヶ原二兵隊整列、規則ノ札ヲナス。東泉寺二泊陣。』とありますが、この『東泉寺』が現在の北小金にある『東漸寺』にあたるようです。『谷口四郎兵衛日記』はこの時土方歳三が行動を共にしていた伝習第一大隊隊士が書いたものだと言われており、土方歳三の当時の行動を追う史料とされています。
東漸寺の参道にも紫陽花の花が咲いていました。
本堂へと続く路。雨に濡れた新録が眩しい。
また来年、紫陽花の季節にも訪れたくなりました。
▲根戸の交差点にある常夜灯
『布施弁天』の看板の裏側にまわると常夜灯の隣に道標もあるのがわかりました。
常夜灯は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が刊行されるなど化政文化が栄えた文化7年(1810)、
道標は生類憐れみの令を出した徳川家綱の治世であった貞享4年(1687)に建立された大変古いものです。
幕末、布施弁天に宿陣した旧幕府軍前軍の行軍も見送ったことでしょう。
道標は生類憐れみの令を出した徳川家綱の治世であった貞享4年(1687)に建立された大変古いものです。
幕末、布施弁天に宿陣した旧幕府軍前軍の行軍も見送ったことでしょう。
この常夜灯と道標のある交差点に『根戸家』という追分蕎麦屋があります。
▲『根戸家』の『もり ミニネギトロ丼セット』¥890
▲『布施弁天 東海寺』
『谷口四郎兵衛日記』には『同十三日、布施弁天駅泊陣。』とあり、
利根川の増水か何かの事情で一日ここに滞留せざるを得ず、
十五日の朝に出立したようです。
『谷口四郎兵衛日記』には『同十三日、布施弁天駅泊陣。』とあり、
利根川の増水か何かの事情で一日ここに滞留せざるを得ず、
十五日の朝に出立したようです。
▲布施弁天の楼門
▲本堂
▲鐘楼
▲鐘楼の独創的な設計や多くの彫刻に当時の技術の高さを見ることが出来ます。
▲三重塔
▲布施弁天の境内から七里ヶ渡方面を見た景色。
斜面に紫陽花の花が咲いていました。
七里ヶ渡は、現在、新利根大橋の掛かっている利根川の河原にあったそうです。
斜面に紫陽花の花が咲いていました。
七里ヶ渡は、現在、新利根大橋の掛かっている利根川の河原にあったそうです。
七里ヶ渡へと向かう道程にも鮮やかなピンクの紫陽花が咲いていました。
この道の先に七里ヶ渡跡があります。
参考文献:『土方歳三日記 下』菊地明編著(筑摩書房)
参考HP:参考HP:『柏市豊勢地域ふるさと協議会』
『えくと28の旧街道てくてく旅日記』
▲七里ヶ渡跡。
後ろに見える赤い橋が『新利根大橋』で、
左に見える大きな木のあたりが七里ヶ渡のあった場所だと言われています。
後ろに見える赤い橋が『新利根大橋』で、
左に見える大きな木のあたりが七里ヶ渡のあった場所だと言われています。
この大きな木の木元にも、七里ヶ渡の案内板があります。
▲享保年間にこの七里ヶ渡で起きた水難事故の被害者を弔う水神宮
さらに川の側まで降りてみました。
このあたりを旧幕府軍前軍は渡っていったのではないかと思います。
このあたりを旧幕府軍前軍は渡っていったのではないかと思います。
七里ヶ渡から見た戸頭方面。
旧幕府軍前軍は戸頭から守谷、水海道、石毛、宗道、下妻、下館と北上し、
上三川から宇都宮城奪還へと進んで行きました。
旧幕府軍前軍は戸頭から守谷、水海道、石毛、宗道、下妻、下館と北上し、
上三川から宇都宮城奪還へと進んで行きました。
布施弁天を訪れるといつも猫たちが駐車場に集まっています。
この前来た時あった猫にもまた会うことが出来ました。
参考文献:『土方歳三日記 下』菊地明編著(筑摩書房)
参考HP:参考HP:『柏市豊勢地域ふるさと協議会』
『えくと28の旧街道てくてく旅日記』