まだ雪の残る石造の塀や蔵。すれ違う人も少なく。
六道辻の閻魔堂。
ここにある大木は、時代の変えられようもない流れに押し潰されそうになりながらも、生きた証を遺した彼らを見ていたのだろう。
宇都宮に在る東軍戦死者の墓及長岡藩士山本帯刀の事 / 宇都宮 小川満峻
客歳宇都宮に在る東軍戦死者の墳墓を世話せる篤志者の事、又墓碑の費用に関し悲哀なる説話ありしことを報道せしが、古河末東君の御注意有之候に付、左に御報致候。
一、墳墓を世話せるは肥料商〔先きに穀商とせしは誤〕岩本弥太郎と申者にて、同人は六年以前荒地にてありし同所に家屋を建築し、爾来墳墓を崇敬し灑掃怠らず、従来近傍の市民が国の為めに斃れたる方なりとて弔祭せし所なるも、岩本居住以来一層の注意を増し、今日は香華を供する者殆んど絶えず、毎年旧暦四月二十三日〔宇都宮戦争の日〕及一月七日には祭典執行し、特に五十年祭には有志者と相謀り、大幟二本花瓶一対等を新調し、又石鳥居を改造せり〔従来篤志家の建造したるものありしが破壊せし為め、五十年祭を好機として五拾餘円を寄附し以て改造せり〕、岩本は妻子に至るまで、日々之を礼拝するを例とするものの如し、実に篤志家と云うべし。
一、石碑は碑の側面に建立者宇都宮藩士戸田三男外十三名の姓名を刻せり、其内生存者は戸田三男一人のみ、其言に依れば戊辰の役、同藩兵の隊長として兵を引率して南口より会津に入り、田島大内等を経、九月十二日此飯寺村に至りしに、長岡藩士十三四名、余等の敵軍なるを知らずして来れり、仍て直ちに之を生捕りたるが、其中に重役山本帯刀なる者あり、其処分を軍監中村半二郎〔桐野利秋〕に禀申せしに、山本は越後口より入りたる軍監に引渡し、他は斬首せよとの命令なれば、山本には一人の兵を附添わせて其手続を為し、他は不憫ながら大川川原に於て之を決行したり、此れに先だち一同は何事か歎願せんとするの模様ありしも、事の成らざるを察したるか、其態度頗る沈着にして且つ服装佩刀等も立派にてありし、最後に臨み唯一言せるは、各自所持する所の軍用金あり、之を貴藩に提供す、相当の費用に充てられんことを乞うと、余其意を領し、合計金弐百餘円を請取り、帰藩の後評議の結果、此金を以て東軍戦死者の墓地を整理して建碑することと為し、尚有志者の賛成を得て之を竣功するに至れりと。
第二信
〔前略〕前便申上候宇都宮藩士戸田三男は、当時数隊を併せたる大隊長と、一部隊長を兼ねたる由に候、依て同人に就き、山本帯刀斬首の模様相尋候処、当時宇都宮五番隊の手にて、山本を軍監に引渡し、餘り遠からざる所に於て斬首せられたることを聞きしも、地名は承知せず、又五番隊は従軍者中今日存命者なく、他に之を知れる者なからんとの事に御座候、引渡の際山本に一人を附添わせとあるは、山本豹吉にてありしならん、此点は符合せる様に被存候、又同人の話に依れば、武具は藩の武具掛に引渡せしが、山本の分は大に目立ち、銀の半太刀造り、刀身も見事なるものに付、此分は特に戸田子爵(←旧宇都宮藩主・戸田忠友)の手元に差出したり、併今日は所持せざる様なりと申居候。
第三信
拝啓、過日御報申上候山本帯刀佩刀の件に付、其後戸田三男来宅、右は名刀なる為め白鞘と為し、当時招魂社へ奉納せらる、同社に倉庫なき為め、国幣中社二荒神社宝蔵に依託相成居候との事なり、戸田子爵は小生隣家にて、且つ二荒神社宮司勤務なれば、早速面会の上一覧を乞いしに、快諾せられ候に付、社務所に於て一覧致候処、招魂社宝物台帳に
一 白鞘刀 長岡藩山本帯刀生捕之節携剣、但無銘
長二尺七分、小身四寸三、分目釘孔二、
とあり、実物を一見したるに、小生は刀剣の鑑定力なく、相分り兼候得共、戸田子爵始め其他人々皆名刀なりと評せり、中には正宗ならんと云える者も有之候云々。
大正7年12月10日発行 「会津会々報 第13号」掲載
参考HP:『會東照大権現』