▲小野神社
小野路の地名の由来について少し調べてみました。相模国の国府が置かれていたところが小野の里と呼ばれており、また武蔵国の府中にも小野ノ宮と呼ばれた場所がありましたが、この二つの小野の地を結ぶ途中の道が通っていたことから小野路と呼ばれるようになったとのことです。小野路は古代より交通の要所とされ、武蔵国国司小野孝泰の領地でした。小野神社はこの小野氏の先祖の小野篁を孝泰がこの地に祀ったものだそうです。小野篁は平安時代の歌人で、菅原道真の先輩にあたる人だと言われています。
▲『小野神社前』のバス停近くに当時を思わせる道がありましたので、少し登って撮影したりしました。
▲高台からみた小野路の風景。
▲土方もよく遊びに行ったと言われる橋本家跡は現在このようになっています。
小島資料館を背にして、道路を挟んだ向かい側の右手にあたります。
橋本家にまつわる土方と沖田の以下のエピソードはファンには周知のもので今更かもしれませんが一応載せておきます。
『歳三の大好物
小野路村(東京都町田市)の橋本道助家に、土方歳三はよく遊びに来た。歳三の大好物は沢庵漬であった。橋本家の沢庵漬は、大変味がよくできていた。
歳三は、橋本家に来ると食事のおかずは、きまって沢庵漬を山のように皿に盛ったのを、ポリポリ、パリパリ、音をたてて食べるのが好きだった。
あるとき、歳三は橋本家の沢庵漬が大いに気に入って、土産に一樽担いで帰ったという。』
『麻疹にかかった総司
文久二年(1862)七月ごろより江戸で悪性の麻疹が流行した。沖田総司は、七月十二日に橋本道助家に剣術を教えに来て、小野路村の門人、再造、幸輔、倉之助、金之助、佐十郎の五人を相手に三日間教えた。門人達は十四日に、沖田に謝礼として一人が弐百七拾六文ずつ支払った。
十五日に沖田が麻疹にかかったので、佐十郎が馬にのせて布田宿まで送って行った。
小島家では、このことを橋本家より聞き、沖田の病状の具合がよくわからず、江戸に奉公に出ていた年頃の小野路村の娘たちが何人か麻疹で死んだことを聞いたため、深く心配した。
沖田は剣術が強く将来は必ず名人になる人であるから鹿之助は深く心配して日記に書き留めた。』
▲『新選組余話』小島政孝著(小島資料館刊行)より
若かりし彼らが歩いた路、通った家々のあった場所。
新選組ファンの方に限らず楽しめる散策コースだと思いました。
季節ごとに素敵な風景が見られそうです。
桜の咲く頃にまた、訪れたいと思っています。
参考文献:『新選組余話』小島政孝著(小島資料館刊行)