北千住散策① | 徒然探訪録

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先日北千住を訪れました。

江戸幕府は江戸を起点に全国各地への交通網を整備していたわけですが、中でも東海道、甲州道、中山道、日光道、奥州道は五街道と言われ、幕府の直轄で、とても重要な街道でした。

またこれらの街道の宿場として、東海道の品川宿、甲州道の内藤新宿、中選道の板橋宿、そして、今回訪れた千住宿も日光・奥州街道の要として、江戸四宿の一つに数えられ、地方と江戸の文化や産品の結節点とされていたのです。

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▲千住宿本陣付近に設置された案内板

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▲本陣があったあたりの現在の風景

江戸の人々の遊興の地として賑わい、千住には遊女を置いていい旅籠が50件ほどもあったと言います。千住宿は日本橋から約9㎞、昔の人々には気軽に出掛けられる距離だったのでしょう。


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▲千住宿問屋場・貫目改所跡

千住の問屋場が設けられたのは元禄8年(1695)。千住宿は50人、50疋です。宿場は幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけていましたので、この問屋場で人馬の手配をしていました。
また、馬に積める荷物には制限があったため、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられましたが、千住宿を出ると宇都宮まで貫目改所はないので、重い荷物を制限内と認めてもらえるようにと賄賂が横行したとの話もあるようです。荷物40貫目(150㎏)を積むと本馬、20貫あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、荷物の積載量で次の宿場までの運賃が定められていました。

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▲千住宿の高札場跡。高札場は宿場の入口・出口に設置され、宿場の掟などを人々に周知してもらうための掲示がなされていました。

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▲宿場町通り沿いに歩くと、昔ながらの建物もいくつか目にすることが出来ます。

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▲名倉医院。江戸時代以来、骨つぎと言えば名倉、名倉と言えば骨つぎの代名詞になる程、関東一円に知られた医療機関だったそうです。今でも営業しています。下妻道に面し、旧日光道中や水戸佐倉の分岐点を間近にして、交通の便も良かったため、骨折患者でひしめきあい、門前の広場は患者を運んできた駕篭や大八車の溜まり場になっていたそうです。上野戦争で敗北したあと、彰義隊隊士の一部も千住宿を通っているようなので、その時負傷してこの名倉医院で手当てを受けた隊士ももしかしたらいたかもしれませんね。

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▲旧下妻道を差す石碑。ルートは違いますが、土方氏も下妻を通って宇都宮へ向かったのだなぁ、自分も下妻下館を巡ったりしたこともあったなぁとその時のことを少々懐かしく思いました。

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▲吉田家。今では都内には手描きで描く絵馬師はほとんどいなくなってしまったそうですが、こちらはまだかつての伝統的な手法を受継いでいる希有な際物問屋さんです。江戸中期より、絵馬をはじめ、地口行灯や凧の絵柄も描いてきました。絵柄は、安産子育、病気平瘡、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決まっており、30数種あるそうです。

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▲横山家。宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えています。屋号を『松屋』といい、江戸時代から続く商家で、地すき紙問屋を営んでいました。伝馬屋敷とは街道に面して間口が広く、奥行が深い建て方のものをこう呼びますが、これはお客様をお迎えする心掛けの現れであり、戸口も一段下げて造ってあるのが特徴です。上野戦争で敗走する彰義隊隊士が腹いせに切りつけたという刀傷ですが、今ではガレージの中に残っているとのことでした。