浅草・鷲神社の酉の市② | 徒然探訪録

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鷲神社には元日鷲命(あめのひわしのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)が祀られており、『おとりさま』と親しまれ、多くの参拝者が訪れています。
先日の二の酉の日も大勢の人々が社を賑わわせていました。

鷲神社の社伝によれば、天照大御神が天之岩戸にお隠れになった際、天字受売命が岩戸の前で舞われましたが、その折りに、弦という楽器でこの舞に伴奏をつけた神様もおられました。その演奏や舞に引き寄せられてお隠れになっていた天照大御神は再び姿を現わされたわけですが、その時に弦の先に鷲がとまったので、それをご覧になった神様たちは、鷲は世を明るく照らす瑞象を現わす鳥だとお喜びになり、以後この弦を演奏した神様は鷲の一字を入れて、鷲大明神、天日鷲命と称されるようになったということです。天日鷲命は、開運・殖産・商売繁盛の神様としてこの鷲神社に祭られることとなりました。

そしてこの後、日本武尊が東夷征伐の際、この社に立ち寄られ、勝ち戦を祈願し、志を遂げての帰途、鷲神社の松に武具の熊手をかけて、勝利を祝ってお参りをされましたが、その日が十一月の酉の日であったと言います。この故事により、日本武尊も併せ祀られることとなり、御祭神の一柱となりました。

酉の市は鷲神社の御祭神の御神慮を伺い、御神恩に感謝し、来る年の開運、授福、除災、殖産、商売繁盛を祈願するお祭りです。
江戸時代より続く伝統のあるお祭りで、『東都歳時記』にも、『酉の日、酉の祭、下谷田甫鷲大明神当社の賑へることは今天保壬辰(1832)より凡そ六十余年以前より前の事』とあり、宝歴・明和年間(1750~60)にはすでにポピュラーな祭事として、多くの人々が訪れ、賑わいを見せていたようです。

酉の祭は十一月酉の日の午前零時に一番太鼓が打ち鳴らされるのを合図に、終日お祭りが執り行われます。以前は酉の祭(とりのまち)と呼ばれていましたが、次第にお祭りに合わせて市が立つようになり、酉の市(とりのいち)の字があてられるようになりました。

この鷲神社の酉の市は関東大震災の時も、また戦時中にあっても、そして終戦の年にも滞ることなく必ず執り行われ、人々の心の拠所とされてきたのです。


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▲酉の市の縁起物、『熊手』

この熊手には鷲が物を鷲掴みにすることになぞらえて、その爪を模したとも言われ、福徳をかき集め、鷲掴むという意味が込められています。

縁起物として熊手にあしらわれることの多い『唐の芋』。これには頭になって出世する、また芋は子芋を数多くつけることから子宝に恵まれるという意味があるそうです。黄金餅もよく熊手の装飾に使われていましたが、これは言わずもがなお金持ちになるという意味が込められています。幕末期よりこの黄金餅に代わって切り山椒が使われるようになったそうです。

熊手にも色々な種類があり、江戸中期より天保年間頃までは柄の長い実用品の熊手におかめの面と四手をつけたものでしたが、その後色々な縁起物をつけるようになり、今のような宝船、平、松扇、文化、御所車など、あるいは毎年の世相を反映した装飾をつけた熊手が作られるようになりました。

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来年も沢山の福がかき集められますように!!


参考HP:浅草 鷲神社公式ホームページ