
▲呉服の新川屋やましやのあるあたりは旧流山街道広小路にあたり、かつて流山の中心部だった。

▲新川屋の脇の細道から土手に上がると矢河原の渡し跡付近に出る。

▲『矢河原の渡し跡』。矢河原の渡しは加村の渡しとも呼ばれ、昭和35年くらいまで存続していたという。大久保大和こと近藤勇が板橋へと移送される際に使われたのもこの渡しである。

▲矢河原の渡しがあるあたりはかつての加村河岸にあたり、当時は水運業やみりん醸造などの産業が盛んで活気を見せていた。
徳川後期にかけ、江戸は世界一の人口を擁する百万都市となっていた。大都市からの需要を満たすため、米や木材、薪炭などは関宿から江戸川を下り、新川・小名木川を通って、日本橋や蔵前に運ばれた。富裕層の上級武士や商人向けに、銚子で獲れる鯛、鮪、鰹、鱸、ヒラメなどの魚介類の需要も増えていったが、これらの物流路は主に舟運ばかりに頼っていた。しかし、利根川筋でしばしば運行不能になることもあり、一刻も早く輸送し、鮮魚の痛みを少なくするため、一旦陸路を通ってから、江戸川でまた舟に積み替える手段を取るようになった。
陸路も併用する、スピード重視のルートには主に以下の三つが使われた。
①行徳道(木下街道):銚子から運ばれてきた鮮魚を木下河岸を中継地として江戸川の行徳新河岸へ送るルート。また、行徳道は江戸からの鹿島・香取・息栖三社詣の旅客が利根川を下る乗船場として賑わったという。
②鮮魚(なま)街道:布施河岸から松戸納屋河岸を結ぶルート。
③諏訪道(うなぎ街道):布施河岸と加村河岸、矢河原の渡しのあたりを結ぶルート。原型は流山駒木の諏訪神社参詣への道だったが、江戸時代中期以降、利根川沿いの布施河岸で荷揚げされた物資を江戸川沿いの加村河岸まで陸送し、そこから再度高瀬舟に積み替えて江戸まで輸送するルートとなった。この当時は利根川や手賀沼はうなぎの産地として知られており、そのうなぎを運ぶための『うなぎ道』として栄えたと言われている。
これらのルートを通った鮮魚は、銚子を夕刻に出発したものが、翌日の夕刻から夜には日本橋に到着したという。
参考HP:『柏市布施地域ふるさと協議会』
『手賀沼学会』
『えくと28の旧街道てくてく旅日記』