
▲このようなのぼり旗を立てている路地裏にある大きな一軒家の玄関を入っていく。

▲『そば処 ちばい』 隠れ家的名店である。地元の新選組ファンが集うところでもあるようだ。

▲まずは駆けつけ一杯。お通しがまた旨い。今日は鮎だった。

▲盛りそば¥700、かき揚げ¥300、グラスビール¥350。駅前ビルのレストラン街にあるような店よりよっぽど安くて旨い蕎麦が食べられる。
ちばい。
珍しい店舗名である。
その由来はここから。
『私の家の庭に、1本の紅梅が植えられている。20年ほど前、八王子市に住む友人、佐宗【さそう】文雄氏が、息子さんと運んで植えていってくれた梅である。
この紅梅は早春になると薄紅色の花を咲かせるが、花はガクが大きく、花びらの小さい原種に近いような花で、現在の華やかなものが多い紅梅に比べると、少し寂しいような花である。この梅の枝を切ると、中は血がにじんだように真っ赤なので、血梅という名で呼ばれているという。
佐宗氏の語るところによると、この血梅は、もと八王子千人町の千人頭石坂弥次右衛門の屋敷内に植えられていた梅で、日野宿北原に住んでいた千人同心井上松五郎は、この石坂弥次右衛門組の世話役を勤めていた。
文久一(1861)、二年のころの早春の一日、この石坂家を、井上松五郎の案内で近藤勇が訪れた。弥次右衛門も快く迎え入れ、種々談笑したが、近藤勇は庭に咲く血梅に目をとめて、慎ましく咲く様を激賞した。弥次右衛門も、「それほどお気に入りならば」と後日接木【つぎき】か取木【とりき】をして贈ることを約束した。
しかし、この約束は、文久三年近藤勇が浪士組に参加して上洛し、新選組局長として京都市中取締りに当たったが、激動する時代に抗しきれず、慶応4年(1868)4月25日、板橋刑場の露と消えたことにより果たされることはなかった。
一方、石坂弥次右衛門も、幕末期は多忙で、将軍上洛の先供【さきとも】、第一次・第二次長州征伐、甲州出張等席の温まる暇も無い程であった。慶応3年暮れから日光勤番を勤めていた千人頭萩原頼母【たのも】の病死により、急きょ後任として赴任した弥次右衛門は、着任早々日光に進攻した官軍に、無血で東照宮等日光を引き渡し、井上松五郎や、土方勇太郎等勤務していた同心を引き連れて閏【うるう】4月10日に帰郷した。
弥次右衛門が帰郷すると、千人同心内の抗戦派から、日光を戦わずして官軍に引き渡した責任を問う声が高まり、この声に弥次右衛門もたまらず、同日深夜に切腹した。
しかしこの時、剣術に熟達した長男は留守で、80歳になる父が介錯【かいしゃく】したが、老齢のために首が落とせず、弥次右衛門は、明け方までうめき苦しんで息を引きとったと伝えられる。
明治維新という激動の中に、その姿を没していった近藤勇、石坂弥次右衛門両士が愛し、また激賞したというこの血梅は、明治以後石坂家の新潟移住等で、行方がはっきりしなかったが、千人町の石坂家の隣家の庭にひっそり残っていた。しかし昭和20年の八王子空襲で黒焦げになってしまったが、やがて芽吹き、花を咲かせるようになった。この梅の接穂【つぎほ】を入手した友人の佐宗氏が何本か育て、その1本を、「谷君は新選組が好きだから」と進呈してくれたものである。
この血梅は、紅梅としては何となくつつましく、寂しいような花である。毎年この花の咲くころに、140年前、折角の約束を守れず、激動の時代に流されていった両士を偲【しの】んでいる。
筆者:日野市文化財保護審議会委員 谷春雄
原稿: 広報ひの平成15 年 10 月 01 日号より転載』
▲日野の歴史と民俗 新選組を語る①ー血梅(ちばい)-(ひの 史跡・歴史データベースより転載)
『日野宿 そば処 ちばい』
日野市日野本町2-16-26
TEL:090(1859)4351
定休日:月曜
営業時間:11:30~14:00、土日は15:00まで。夕方は電話してもらえれば対応。