すけは累の前に与右衛門夫婦の間に生まれた子どもであるが、見た目にもわかるような障害を持って生まれた為、父に疎まれ、子どもより父親をとった母親に殺害されている。その後生まれた累もすけと同じ障害を抱えて生まれてきた。
子殺しの因果は巡り、さらに累は怨霊となって家人に取り憑き、周囲に不幸を振りまいている。
このすけの挿話は、望まれず生まれたきた子どもを間引きすると、ある種の呪いがかかるのだと戒めているのだともとれる。
日本では、江戸時代以前から間引き・堕胎の風習があった。
ルイス・フロイスの『日本史』にこのような記事がある。
『日本では女が堕胎をおこなうことが非常に多い。あるものは貧困から、他のものは多くの子を持つのをいやがるために、また他のものは人に召使われる身であり、もしこれをおこなわなければ勤めを十分に果たしてゆけないために、などの理由からである。こうしてこの行為は何人もとがめないほど一般的になっていた。生まれた子の咽喉に足をのせて圧し殺すものもあれば、ある種の薬をのんで堕胎するものもあった。堺の町は大きく人口が多かったから、朝がた岸べや堀ばたをいくと、そこに投げこまれたこの種の子どもの死体を時々見ることがあった』
『ある信者の婦人がまだ異教徒であったとき、十八度も堕胎したとわがパードレ(神父)の一人にざんげしたことがある。この残忍にして非道なる行為を彼らはあたりまえのこととしている。ボンゾ(坊主)も禁止しようとはしない』
コリヤードの『懺悔録』には
『わたしの夫は意地の悪いものなれば、わたしをうつつ、たたいつせらるるによって、その子をもうけぬためとして、身もちになってより、腹をひねって、その子をばおろしまらした。わたしたちは貧人しごくでござれば、そのほか六人の子をもちましたが、一度も懐妊になってより、薬を用いて六月の子をおろし、一度また産の時分に、子をば踏みころいて、腹中から死んで生まれたと申しまらしてござる』
との記事が載っている。
しかし、幕府の間引きへの対策は手ぬるく、捨て子の禁令はあっても、間引きの禁令はあまり見当たらない。
わずかに明和四年(1767)10月のお触れで、
『百姓どもおおぜい子どもこれあり候えば、出生の子を生所にてただちに殺し候国がらもこれある段相聞え、不仁のいたりに候。以来右体の儀これなきよう、村役人はもちろん百姓どもたがいに心をつけ申すべく候。常陸、下総あたりにしては別にして右のとりざたこれある由、もし外より相あらわるるにおいては曲事となすものなり。右のとおり相触れるべく候』
と戒めているばかりである。
『死霊解脱物語聞書』が出版されたのは、1690年のことだが、奇しくも同年に幕府から捨て子禁止に関する最初のお触れが出されている。
『死霊解脱物語聞書』は累の怨霊を祓った祐天の弟子、残寿がまとめたものであるから、祐天自身の脚色もされていたと考えられるし、祐天の出世の足がかりとして編纂されたことは伺える。
人々は間引きを常習としていたが、全く罪悪感を持っていなかったわけではないことは、コリヤードの『懺悔録』からも読み取れる。
祐天は『死霊解脱物語聞書』を編纂・出版させることによって、人々のこのような感情を揺さ振って、自身の布教活動を広く知らしめようとしたのではないかと考えられる。
『死霊解脱物語聞書』と捨て子禁止令が出されたのが同年なのも偶然ではないはずなのだ。
参考文献:『平凡社ライブラリー 95 日本残酷物語1 貧しき人々のむれ』