欠陥製品 | 愛しのSillyDoll、、、

欠陥製品

人生における致命傷ってなんだろう。

首を斬られること。
それは勿論当たり前。
心臓を潰す。
これも当然。
脳を破壊する。
いわゆる必然。
呼吸を停止させる。
それも断然いい方法だ。

だけどここでぼくが言う《致命傷》は、そういう些細にしてどうでもいいようなことを指しているのではない。
人生における致命傷とは、人でありながら人でなし、人間でありながら人生を送れない、生きているのに死んでいた、そういう圧倒的状況に陥ってしまうほどの衝撃。理性があるがゆえに陥ってしまう相対的矛盾に、全身がまるごと呑み込まれて、ひき潰されてしまうことを意味する。

それがいわゆる致命傷。

要するに《失敗》だということ。

ここで重要なのは失敗しても“続く”って点だ。
世界は残酷なくらいにぬるま湯い。
優し過ぎて酷情で、悪魔がゆえに極楽だ。
ぶっちゃけた話、程度のでかいミスを犯したところで人間は死なない。
それは死ねない、とでも比喩すべきか。

そう、死なない。
苦しむだけだ。
ただ単純に、もがき苦しむだけなのだ。
そして続く。いつまでもどこまでも続く。 ただ、意味もなく、続く。

人生がゲームでないのはリセットボタンがないからではなく、そこにゲームオーバーがないからだ。
とっくの昔に《終わっている》のに、それでも明日はやってくる。
夜が来ても朝がくる。
冬が終われば春が来る。
人生って素晴らしい。

致命傷でありながらも死ぬことができないという、これは絶対矛盾。
それはたとえば、光速を越えて振り向いたときに、ヒトは視覚に何を捉えるのかという、有り得ない問いのようなものだ。

自分が自分である可能性が既に断たれているに尚、続く。
何度でもやり直せる。
人生は何度でもやり直せる。

だけどそれは、質の悪い複製をむやみやたらと繰り返すようなもので、やり直すたびに自分という存在が劣化していく。


その内、
自分は本当に自分なのか、それとも、

とっくの昔に

違うモノに

成り果てているのか。

成り下がっていたのか。


主観者が所詮第三者になれないように、
自分は自分の主観者になれない。
致命的というならば正にそれだ。



「……つまりは精神論なんだけどね…」





西尾維新

『人間失格・零崎人識
クビシメロマンチスト』

P41 第一章・斑裂きの鏡(紫の鏡)3より抜粋




しょっぱなから重くてスミマセン。

朝食はさっぱりした和食!!ただしギャル曽根とフードファイト!!みたいな!!

はい、スミマセン(^_^;)

私西尾さんの人間シリーズめちゃ好きなんですよ。


言葉で攻める、っていうか…

言い回しがストレートであり、回りくどくもあり、矛盾してるんだけど筋は通っているのです。

心に痛い攻撃的な言葉が沢山。

読んだ後は虚脱感と無気力感と焦燥感でいっぱいです。

騙し騙され、殺し殺され、感情と無感情が複雑に絡んだ“ぼく”の物語が私は好きです。

“ぼく”が自分に似ているからかもね。




戯言だな。




皆様も一回読んでみるといいよ。