あたしは嘘をついた。
その嘘は誰を傷つけたわけでもない。だけど、「嘘」を「嘘」と認識して苦しんでいるのはあたしだ。ほかでもないあたし。いつだって、誰かに言葉で傷つけられることはない。言葉は、自分の中にある特定の事柄を刺激して、痛みを思い起こさせるだけ。だから、無意識的に出た言葉も、悪いのは他人じゃなくて、その傷を癒すことのできない自分に問題がある。
あたしは「負けず嫌い」と言われることが嫌い。負けることに勝ちはあるし、勝ち負けの勝敗は、そもそも誰も救わない。狭い世界で誰かと競っていても、たとえ世界で一番を取ることができても、いつだって「敵」は生まれてキリがない。
だから私は部活が嫌いだ。基準を学校内におけばあたしは上位だけれど、基準を世界に置いた瞬間、あたしは何者でもなくなってしまう。けれど、あたしに見える世界の範囲は限られているから、妬まれることも、また負けてしまうことも怖い。怖いって言っても助からない。あたしの世界にいる人は、あたしの世界に見える基準であれこれを測ってしまう。
あたしは勘違いを起こしていることを知っている。チームの中で順位決定戦を行って、みんなはまるでそれが世界の基準のように評価する。「あの子はバレーがよく出来る人」。
たまたま運が良く、あたしより運動能力の高い人がこの部活にいないだけ。あたしと同世代の中ではあたしが一番を取れただけ。同じ量だけ練習して、同じ時間に同じことを繰り返していると、当然個体差がある。あたしはたまたま自分の優れた部分が、この狭い世界で活躍しただけ。なのに、同級生も、上級生も、先生も、みんな、わかってくれない。だってみんなの基準は、この学校の中だけに存在しているから。
あたしは嘘をついた。
その嘘は跳ねっ返りであたしの心を静かに抉った。「辞めます」って言葉が言えなかったから、「辞めます」って言える人に口もとを合わせてみた。そうしたら、一緒に部活を辞めることができた。みんな理解者ぶって快く送り出した。「そうか。次の場所でも頑張って」。
あたしは勘違いを起こしていたようだ。あたしが一番だから、あたしの出来が良いから、みんな「辞めないで」って言うかと思っていた。「必要だよ」って言ってくれるかと思っていた。だけどみんなの視線は「裏切り者」だとか、あたしの責任を負わない身勝手さを指摘した。
辞めたいとは思っていなかった。少なくとも部活は。少なくとも、バレーは。嫌いになったわけでもない。自分でも身勝手さや無責任なところは、これじゃまずいなとは思う。世の中にある勝ち負けほど不毛なものはないし、楽しく部活も、バレーもやればいいと思う。生きて、死ぬあいだにある「勝ち」も「負け」も、ギャンブルと同じくらい同数しか訪れない。あたしがバレーの世界で勝つことができるのはせいぜい努力しても卒業までだ。それも、地区大会レベルの。あたしが辞めたことを咎めるのも、せいぜい3ヶ月くらいのものだと思う。そうして、あたしも、みんなも、慣れていく。時間はどんどん過去へ流れていくのだから。
なのにどうしてこんなに心が痛い。
「合う」とか「合わない」とかそんなものは偶然たまたま。周りの人が良かったとか、環境が良かったとか、そんなことに擦り合わせてでっち上げた感情でしかないのに。まるで自分にはこれしかないように思える時がある。たまたま偶然、自分が一番になってしまった。その幸運を喜んでいただけに過ぎないのに。驕ってしまう自分をひたすら疎ましく思う。
先生は「通知表の評価」についてくどくど話す。君はこの先、部活を途中で投げ出した子として評価されていく、なんて。通知表の結果なんて、一度や二度、誰かが評価に使う程度にしか効果のないことについて真面目に話す。同級生は「もったいない」という。この先続けていればプロの道だって見えたかもしれない才能があったのになんて根拠のない妄想を話す。どうにもならない話が、あたしの招いた言葉の不用意さを咎める。でも、本当はこれで救われているあたしも、心のどこかでは存在するのかもしれない。今は、「無責任」や「裏切り者」なんて言葉の効力に惑わされているだけ。後悔なんて言葉は、思い出の中にしか存在しない。未来では、戯言として流れて言ってしまうのだから。
部活なんて、ちっぽけな話でしょう。
けれどこんなことは人生の序章で、この先何度もあたしはこの嫌な感覚に巡り合う。自分の「本音」なんてものが存在すると信じながら、現状への不満、未来への期待、過去への後悔なんてものを織り交ぜながら何度も何度も、どう結論づけるか悩み続けることになる。あたしはそれをわかっている。答えのないところに、答えを無理やり生み出そうとする浅ましい世界を知っている。
あたしは嘘をついた。でも、嘘ではない本音の正体も知らない。
その嘘は誰を傷つけたわけでもない。だけど、「嘘」を「嘘」と認識して苦しんでいるのはあたしだ。ほかでもないあたし。いつだって、誰かに言葉で傷つけられることはない。言葉は、自分の中にある特定の事柄を刺激して、痛みを思い起こさせるだけ。だから、無意識的に出た言葉も、悪いのは他人じゃなくて、その傷を癒すことのできない自分に問題がある。