6年。
なんだか中途半端な時の流れ。
6年の時の流れって、一体どれくらいの価値(?)があるんだろ…?
6年前、僕は何してたかな。
多分僕は、西の街であるプロジェクトに参加してた。
電気を創るプロジェクト。
大変だったけど、未来に希望を繋ぐプロジェクトだった。
そんなプロジェクトに交ぜて貰えて良かったよ。
沢山の方々と、一緒に未来を夢見ることできたんだ。
その時、気が付かなかったんだけど、十五夜が満月だったんだね。
そして昨夜。
お月さまは満月。
とっても明るくって素敵なお月さま。
どうやら6年ぶりの十五夜の満月。
この6年間。
どんなふうに過ごして、何して来たかな。
良いとか悪いとか、満足とか不満足とか、自己の評価にしても色々評価は出来るんだろうけど、それがこの6年間の僕であることには違いないよ。
受け入れよう。
さて、そしたらこれから訪れる時。
どう過ごそう…。
6年前がどんなに希望に満ちていようと、決して戻れはしないもん。
神様が、僕にどれほどの時を与えてくれてるか知らないし解りようもないんだけど、その時で何か一つ夢を叶えられたら素敵だ。
成否は問わず、そのための時なんだよね。
8月24日。
あと一週間で8月もおしまい。
昨日、今日と暑さは戻って来たけど、心なし波の音遠く感じる気がして来た。
他の季節が嫌いな訳じゃないんだけど、夏の終わりは何だか寂しさが募ったりして…。
季節は巡り、また訪れる夏なんだけど何だかね。
もう暫くすると、浜の人影も疎らになって来るんだろな。
今年はどんな物語が生まれたんだろ?
浜昼顔は、そんな浜をどんな想いで眺めてるんだろ?
あと一週間で8月もおしまい。
昨日、今日と暑さは戻って来たけど、心なし波の音遠く感じる気がして来た。
他の季節が嫌いな訳じゃないんだけど、夏の終わりは何だか寂しさが募ったりして…。
季節は巡り、また訪れる夏なんだけど何だかね。
もう暫くすると、浜の人影も疎らになって来るんだろな。
今年はどんな物語が生まれたんだろ?
浜昼顔は、そんな浜をどんな想いで眺めてるんだろ?
きっと、大変なんだ。
背負うって。
でも誰でも皆、多かれ少なかれ色んな物語を背負ってるはずなんだ。
僕は…。
ちゃんと背負ってるかな…?
問いただしてみる。
あんまりちゃんと背負ってないみたいだ。
ってゆうか背負いたいものだけ背負って来た感じ。
なんでだろ?
それはきっと仕事にしても、人間関係にしても、ココロの赴かないところでは、自我とゆうか主観とゆうかを、切り離してただ義務を果して来たに過ぎないから…。
つまり気に入らない事象には、ココロここに在らず状態ってゆうか…だった。
深く踏み込もうとせず、考えを巡らせる気すらもなく、流れに漠然と身を任せて来た部分があるから。
逆に、自分の好むところは、好きなだけ踏み込んで飽くことない。
歩くのも覚束ない位に、疲れ切っても幸せ感じてしまえる。
端的にゆえば、社会の一員としての自分はある意味無気力で、社会での活動は、私的な世界観を生きる(活きる)為の方便に過ぎないとさえ思ってる節がある。
社会は社会。自分は自分と大それた区分けをして生きてる。
例えば、会社で唯一ココロが弾む時は、負け戦の時なのだよ。
勝つと決まってる事には、興味もないし役立たずでもある。
そんな時の僕は言わば、ボロ雑巾みたいなもんだ。
で、敗戦濃厚な時こそ気持ちが高ぶってしまうのだ。
だって、何でも出来るでしょ?
会社のエライ方々も、敗戦に絡みたくないから、責任逃れでいつの間にか去ってくし。
だもんで好き勝手にプランを練って、一暴れ出来る。
普段なら決してやれない様な事もやれちゃうんだ。
だから楽しい。
サジタリウスの矢がたった一矢で、さそりの心臓を狙うように、ギリギリの緊張感が魂を揺さぶるんだな。
あー…でも。
今はそれも過去のお話。
ココロも身体も、何のあてもない今。
海鳴る風に自由だ。
言い方変えれば、社会的無責任とも社会に対して不適格ともゆうんだろね。
それも良いかも。
うん。気に入った。
背負うって。
でも誰でも皆、多かれ少なかれ色んな物語を背負ってるはずなんだ。
僕は…。
ちゃんと背負ってるかな…?
問いただしてみる。
あんまりちゃんと背負ってないみたいだ。
ってゆうか背負いたいものだけ背負って来た感じ。
なんでだろ?
それはきっと仕事にしても、人間関係にしても、ココロの赴かないところでは、自我とゆうか主観とゆうかを、切り離してただ義務を果して来たに過ぎないから…。
つまり気に入らない事象には、ココロここに在らず状態ってゆうか…だった。
深く踏み込もうとせず、考えを巡らせる気すらもなく、流れに漠然と身を任せて来た部分があるから。
逆に、自分の好むところは、好きなだけ踏み込んで飽くことない。
歩くのも覚束ない位に、疲れ切っても幸せ感じてしまえる。
端的にゆえば、社会の一員としての自分はある意味無気力で、社会での活動は、私的な世界観を生きる(活きる)為の方便に過ぎないとさえ思ってる節がある。
社会は社会。自分は自分と大それた区分けをして生きてる。
例えば、会社で唯一ココロが弾む時は、負け戦の時なのだよ。
勝つと決まってる事には、興味もないし役立たずでもある。
そんな時の僕は言わば、ボロ雑巾みたいなもんだ。
で、敗戦濃厚な時こそ気持ちが高ぶってしまうのだ。
だって、何でも出来るでしょ?
会社のエライ方々も、敗戦に絡みたくないから、責任逃れでいつの間にか去ってくし。
だもんで好き勝手にプランを練って、一暴れ出来る。
普段なら決してやれない様な事もやれちゃうんだ。
だから楽しい。
サジタリウスの矢がたった一矢で、さそりの心臓を狙うように、ギリギリの緊張感が魂を揺さぶるんだな。
あー…でも。
今はそれも過去のお話。
ココロも身体も、何のあてもない今。
海鳴る風に自由だ。
言い方変えれば、社会的無責任とも社会に対して不適格ともゆうんだろね。
それも良いかも。
うん。気に入った。