休日の最終日は昼夜逆転なんて人も少なくないはず。
そんな僕もご多分にもれず昼夜逆転。。。


ということで日記書きます。

タイトルにある『リスクを取った開拓者たち』ですが、暇潰しにネットサーフィンしていたら海洋冒険家の堀江謙一さんのことが書かれている記事を見つけました。


○二宮清純のビジネス×アスリート論より
リスクを取った開拓者たち~堀江謙一、野茂英雄の挑戦~

リスクを取る――。それはイチかバチかの思考や行動ではない。

緻密な計画が前提となる。とはいえ、結果が吉と出るか凶と出るか、それはやってみなければわからない。

混迷の時代だからこそ一歩前に踏み出す勇気が必要となってくる。


1962年8月12日、日本人の英雄が誕生した。男の名前は堀江謙一。たったひとりで小型ヨットを操って太平洋を渡りきったのだ。

この時、堀江青年23歳。


実はサンフランシスコ到着の前、堀江青年の父親が「長男がヨットでアメリカに行くと言ったまま、3カ月も消息を絶っている」と大阪海上保安監部に届け出た。


3カ月前の5月12日夜、堀江青年はアルバイトで得たわずかばかりの資金を元手にして買った小型ヨット「マーメイド」号でアメリカに向け出航していたのだ。


<三カ月消息を絶つ。米国へ出航の青年>


8月11日付の毎日新聞夕刊社会面の見出しだ。

当時の関係者に聞くと「無謀すぎる」という意見が大多数だったという。「行く子も行く子なら、ひとりで行かせる親にも責任がある」としたり顔で述べる評論家もいたそうだ。いずれにしても当時23歳の青年の勇気を称える声はほんの少数で、ほとんどの日本人は「無責任な行動」に眉をひそめていたのである。


不法出国の事実を知った日本の法務省は西海岸に到着すると同時に「出入国管理法違反」でアメリカ政府に身柄を拘束するよう要請した。


同時に「帰国すれば起訴する」方針を固めた。つまり扱いは「犯罪者」である。
ところが、日本政府にとっては予想外の展開が待ち受けていた。

海の向こうの反応はまるで違っていたのだ。


8月12日、サンフランシスコに到着するや否や、市民はもちろん行政当局までもが堀江青年を「英雄」として迎え入れたのである。


「パスポート? あのコロンブスだってパスポートを持っていなかったではないか」
ヨットでの単独太平洋横断という快挙に感動したサンフランシスコ市長は堀江青年を「名誉市民」とし、わざわざ歓迎の晩餐会まで開いて記念の「市の鍵」を贈った。

地元のヨットクラブは名誉永世会員証と埠頭の生涯無料使用証を発行し、滞在に必要な保証人になることを申し出たという。


アメリカで「英雄」として扱われている日本人青年を、まさか本国が「犯罪者」として扱うわけにはいかない。

アメリカでの熱烈歓迎ぶりを知った法務省は態度をコロリと変えた。

アメリカとの摩擦を避けるため、出入国管理法違反での起訴を見送ったのである。いわゆる「超法規的措置」だ。


これを機に世論も一変する。サンフランシスコに到着してアメリカの行政当局や市民の熱烈歓迎を受けるまでは「無責任」「無謀」と見なしていたメディアまでもが彼を英雄扱いし始めたのだ。

国会議員の中からは帰国費用をカンパしようという声まで出てきた。降ってわいたような人気にあやかろうとする政治家の魂胆が透けて見える。


今も昔も「世論」はこのように形成され、このように変質する。

一歩、前に踏み出す勇気は、もちろん自分の夢の実現のためではあるが、ひいては国の制度や旧弊をも変えてみせるのである。


「パスポート? あのコロンブスだってパスポートを持っていなかったではないか」


…サンフランシスコ市長カッコ良すぎ(ノ_・。)


この堀江謙一さんは、1996年にアルミ缶リサイクルのソーラーパワーボートでエクアドル~東京間を単独無寄港太平洋横断を成し遂げたんですが、その時の新聞記事を今でも覚えてます。


とっても素敵な笑顔で写る…ナイスミドルなおじさんでした。

当時、植村直己やこの堀江さんみたいに型枠に当てはまらない生き方をしたいなぁなんてぼんやりながら考えてました。

とりあえず手作りヨットで関門海峡横断でもしてみようかしら。
カナヅチだけど、あの辺なら海上保安庁も近いし海猿たちがすぐ来てくれるでしょう。