ナショナル・フラッグ・キャリアーと呼ばれた日本航空の問題がよく話題挙げられますが、労組の強さをつくづく感じさせられます。
当時の労組と今の労組が変わってないんだなぁと思う出来事が下記の歴史の中からもよく分かります。
まだ役職についていない僕も労組側ではありますが、蟹工船からも分かるように、労働者=企業の関係を作るのが役割であって、労働者>企業の立場になってしまったら、色々な制約があって現場の人間としては動きにくくて仕方がない。。。
~エルトゥールル号~
1890年6月6日、トルコ軍艦エルトゥールル号が横浜に到着した。オスマン・パシャ提督以下600名余りの使節団が来日した目的は1887年に小松宮彰仁親王夫妻がトルコを訪れた際に明治天皇からの贈り物や新書を届けたことに対する答礼の意味もあったが日本ととるこの共通の敵であるロシアの脅威に対して日本とトルコが親密な関係を築きロシアに対抗する術を得ようとしたこととも言われている。
日本はこの使節に対して国賓待遇で迎え明治天皇がトルコの勲章を受け取ったり逆に使節に対して日本の勲章を授与したりと良好な関係を築くことに成功した。
民間の方でも使節団を「品行方正である」と新聞が褒め称えたことからも評判は上々であった。
使節団は3ヶ月滞在しトルコへの岐路に着くことになった。
折しも台風シーズンであったがトルコ政府の指示で9月14日に横浜を出向した。
運命のいたずらかエルトゥールル号は9月16日に和歌山県沖で台風に遭い座礁の上、沈没してしまった。
運良く和歌山県大島の樫野崎灯台にたどり着いた遭難者は灯台の職員に発見された。
灯台の職員は事件を知るや大島村長に知らせ村長は和歌山県庁に報告した。
当時の大島ではライフラインが十分でなく、60戸という小さな島であったが島を挙げての救助活動が展開された。
台風のために漁に出られず食料はあまりなかったが島民は非常食である甘藷や鶏を遭難者に差し出して手厚く介護した。
一方で外務大臣青木周蔵はこの事件を知るとトルコ外務大臣にあてた弔電を打ち、海軍はエルトゥールル号捜索のために軍艦を派遣、和歌山県が引き上げを行ない費用は国庫負担とした。
明治天皇も侍従や侍医、看護婦を派遣された。
さらに民間のほうでも全国から義援金が集まりその額はおよそ5000円(現在の1億円)に上ったとされる。
さらに遺体・遺品の回収も行われ、樫野崎に慰霊碑が建てられた。
生存者69名は海軍が比叡・金剛の2隻の軍艦によってトルコに送還し、義援金も山田寅次郎によってトルコに届けられた。
山田寅次郎はトルコ側の要請によりトルコに残り日本語を教えるとともに日本とトルコの親善に勤めた。
ちなみに山田寅次郎の教え子の中に後の近代トルコの父、ケマル・アタチュルクがいた(後にケマル自身が山田と再会したときに明言。
もっとも山田は忘れていたらしくかなり当惑したという)。
このことでトルコはかなり日本に親しみを持ったようである。
日露戦争の際にはロシア黒海艦隊の通行をトルコが許可せず、バルチック艦隊との合流を最小限に抑えた。
日本海海戦のときに日本が勝利したことをトルコは自国が勝利したかのような雰囲気でありこの年には東郷平八郎にあやかって自分の子供に「トーゴー」と名前をつけるものまでいたという。
また乃木将軍の名前はトルコのイスタンブールの通りの名になっている。
さらに第二次大戦のときに勝ち馬に乗るがごとく連合国側に参戦して戦後賠償金を得た国もあった(永久中立国であるはずのスイスや序盤では同盟国であったイタリアにも日本は賠償している)。
しかし、トルコはサンフランシスコ条約を結んだけれど日本に対しては賠償請求はしていない。
~時は流れ1985年3月17日~
イラン・イラク戦争の最中にイラク軍が「今から40時間後(日本時間3月20日午前2時)以降イラン領空の飛行機は軍用機であろうが民間機であろうがイラク軍機の攻撃を受ける可能性がある」と無差別攻撃宣言をした。
おまけにイランがバクダットに向けてミサイル攻撃をするなど事態はますます悪化した。当然のことであるがイランにいた外国人は次々と国外に脱出した。
日本は初期対応が遅れ、他国は特別機を出すのであるが自国民を優先させたために日本人215人はテヘランのメヘラバード空港に取り残されてしまった。
外務省は救援機派遣を日本航空に依頼したが「乗員の帰る際の安全が保障されない」としてイラン乗り入れを断念した。
無常にも刻々と時間だけが過ぎていく。
もはやこれまでと思われたとき2機のトルコ航空特別機がメヘラバード空港に到着し日本人全員を乗せてイランを飛び立った。
タイムリミットの1時間15分前であった。
このトルコの行動について政府や日本マスコミは驚いた。
日本政府からの正式な救援要請は出ていない。
なぜトルコは日本人を助けたのか?某大手新聞社1社は日本がトルコに対して経済援助を強化しているからと理由を紙面に載せた。
しかし、事実は異なる。
この裏にはテヘラン日本大使館の野村豊大使が日ごろから親交のあったトルコ大使館のビルレル大使に窮状を訴えたところ「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。
トルコ人なら誰もが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。
ご恩返しをさせていただきましょうとも」と言いトルコ本国のトルコ航空に要請し、トルコ航空がすかさず2機の特別機を派遣したのである。
さらに元駐日大使ネシアティ氏はこう述べた。
エルトゥールル号の事故に際し大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を今もトルコの人たちは忘れてはいません。私も小学生のころ歴史教科書で学びました。
トルコは子供達でさえエルトゥールル号のことを知っています。
今の日本人が知らないだけです。
そこでテヘランで困っている日本人を助けようとトルコ航空機が飛んだのです。
2002年のFIFAワールドカップで日本・トルコ戦の関係で一時期有名になった話であるがまだまだ歴史の片隅に埋もれている美談である。
なお、ワールドカップ関係の蛇足ではあるがトルコが日本に勝った翌日のトルコの有力紙ヒュエトには見出しに「泣くな、サムライ 心はみなさんと一つだ」と出たうえトルコは日本の分まで戦うと伝えている。また、「サムライを切った」「スモウのような押し倒し」と日本を思わせるかのような書き方をしている紙面もあったという。
労使一体の企業が一番いいとは思いませんが、税金投入される身で、最近発行されたあの機関誌の内容はどうなんだ?
当時の労組と今の労組が変わってないんだなぁと思う出来事が下記の歴史の中からもよく分かります。
まだ役職についていない僕も労組側ではありますが、蟹工船からも分かるように、労働者=企業の関係を作るのが役割であって、労働者>企業の立場になってしまったら、色々な制約があって現場の人間としては動きにくくて仕方がない。。。
~エルトゥールル号~
1890年6月6日、トルコ軍艦エルトゥールル号が横浜に到着した。オスマン・パシャ提督以下600名余りの使節団が来日した目的は1887年に小松宮彰仁親王夫妻がトルコを訪れた際に明治天皇からの贈り物や新書を届けたことに対する答礼の意味もあったが日本ととるこの共通の敵であるロシアの脅威に対して日本とトルコが親密な関係を築きロシアに対抗する術を得ようとしたこととも言われている。
日本はこの使節に対して国賓待遇で迎え明治天皇がトルコの勲章を受け取ったり逆に使節に対して日本の勲章を授与したりと良好な関係を築くことに成功した。
民間の方でも使節団を「品行方正である」と新聞が褒め称えたことからも評判は上々であった。
使節団は3ヶ月滞在しトルコへの岐路に着くことになった。
折しも台風シーズンであったがトルコ政府の指示で9月14日に横浜を出向した。
運命のいたずらかエルトゥールル号は9月16日に和歌山県沖で台風に遭い座礁の上、沈没してしまった。
運良く和歌山県大島の樫野崎灯台にたどり着いた遭難者は灯台の職員に発見された。
灯台の職員は事件を知るや大島村長に知らせ村長は和歌山県庁に報告した。
当時の大島ではライフラインが十分でなく、60戸という小さな島であったが島を挙げての救助活動が展開された。
台風のために漁に出られず食料はあまりなかったが島民は非常食である甘藷や鶏を遭難者に差し出して手厚く介護した。
一方で外務大臣青木周蔵はこの事件を知るとトルコ外務大臣にあてた弔電を打ち、海軍はエルトゥールル号捜索のために軍艦を派遣、和歌山県が引き上げを行ない費用は国庫負担とした。
明治天皇も侍従や侍医、看護婦を派遣された。
さらに民間のほうでも全国から義援金が集まりその額はおよそ5000円(現在の1億円)に上ったとされる。
さらに遺体・遺品の回収も行われ、樫野崎に慰霊碑が建てられた。
生存者69名は海軍が比叡・金剛の2隻の軍艦によってトルコに送還し、義援金も山田寅次郎によってトルコに届けられた。
山田寅次郎はトルコ側の要請によりトルコに残り日本語を教えるとともに日本とトルコの親善に勤めた。
ちなみに山田寅次郎の教え子の中に後の近代トルコの父、ケマル・アタチュルクがいた(後にケマル自身が山田と再会したときに明言。
もっとも山田は忘れていたらしくかなり当惑したという)。
このことでトルコはかなり日本に親しみを持ったようである。
日露戦争の際にはロシア黒海艦隊の通行をトルコが許可せず、バルチック艦隊との合流を最小限に抑えた。
日本海海戦のときに日本が勝利したことをトルコは自国が勝利したかのような雰囲気でありこの年には東郷平八郎にあやかって自分の子供に「トーゴー」と名前をつけるものまでいたという。
また乃木将軍の名前はトルコのイスタンブールの通りの名になっている。
さらに第二次大戦のときに勝ち馬に乗るがごとく連合国側に参戦して戦後賠償金を得た国もあった(永久中立国であるはずのスイスや序盤では同盟国であったイタリアにも日本は賠償している)。
しかし、トルコはサンフランシスコ条約を結んだけれど日本に対しては賠償請求はしていない。
~時は流れ1985年3月17日~
イラン・イラク戦争の最中にイラク軍が「今から40時間後(日本時間3月20日午前2時)以降イラン領空の飛行機は軍用機であろうが民間機であろうがイラク軍機の攻撃を受ける可能性がある」と無差別攻撃宣言をした。
おまけにイランがバクダットに向けてミサイル攻撃をするなど事態はますます悪化した。当然のことであるがイランにいた外国人は次々と国外に脱出した。
日本は初期対応が遅れ、他国は特別機を出すのであるが自国民を優先させたために日本人215人はテヘランのメヘラバード空港に取り残されてしまった。
外務省は救援機派遣を日本航空に依頼したが「乗員の帰る際の安全が保障されない」としてイラン乗り入れを断念した。
無常にも刻々と時間だけが過ぎていく。
もはやこれまでと思われたとき2機のトルコ航空特別機がメヘラバード空港に到着し日本人全員を乗せてイランを飛び立った。
タイムリミットの1時間15分前であった。
このトルコの行動について政府や日本マスコミは驚いた。
日本政府からの正式な救援要請は出ていない。
なぜトルコは日本人を助けたのか?某大手新聞社1社は日本がトルコに対して経済援助を強化しているからと理由を紙面に載せた。
しかし、事実は異なる。
この裏にはテヘラン日本大使館の野村豊大使が日ごろから親交のあったトルコ大使館のビルレル大使に窮状を訴えたところ「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。
トルコ人なら誰もが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。
ご恩返しをさせていただきましょうとも」と言いトルコ本国のトルコ航空に要請し、トルコ航空がすかさず2機の特別機を派遣したのである。
さらに元駐日大使ネシアティ氏はこう述べた。
エルトゥールル号の事故に際し大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を今もトルコの人たちは忘れてはいません。私も小学生のころ歴史教科書で学びました。
トルコは子供達でさえエルトゥールル号のことを知っています。
今の日本人が知らないだけです。
そこでテヘランで困っている日本人を助けようとトルコ航空機が飛んだのです。
2002年のFIFAワールドカップで日本・トルコ戦の関係で一時期有名になった話であるがまだまだ歴史の片隅に埋もれている美談である。
なお、ワールドカップ関係の蛇足ではあるがトルコが日本に勝った翌日のトルコの有力紙ヒュエトには見出しに「泣くな、サムライ 心はみなさんと一つだ」と出たうえトルコは日本の分まで戦うと伝えている。また、「サムライを切った」「スモウのような押し倒し」と日本を思わせるかのような書き方をしている紙面もあったという。
労使一体の企業が一番いいとは思いませんが、税金投入される身で、最近発行されたあの機関誌の内容はどうなんだ?