弱いものいじめをする人間は、そもそも弱い人間がいじめをするとされている。

弱い自分を隠したいのか、それとも弱さを認めたくないのか、強い存在でいようとするためには自分よりも弱い立場の人間に力を誇示しなければならない。
その行為こそが、いじめが始まる原因とされる。

高貴なる道徳とされた「武士道精神」を家庭環境で教わる武士の子供たちは生まれながらにして「負けてはならない」と教育されるのだが、そのもっとも負けてはならない存在というのが「自分自身」ではないかと私は考えている。
自分の弱い心、楽をしたいという欲求、何かを欲したいという願望に負けず、常に自分を律し続けること。
これはまさに武士だからこそできることであり、「お侍様」と庶民から崇められる所以ではないだろうか。

要するに、それほどまでに高い道徳を持った人間が弱いものいじめや卑怯なことをするはずがないし、おそらくできなかったに違いない。
特に感受性の高かったとされる武士には、強者から虐げられる人々の苦しみや悲しみが人一倍強く感じることができたと考えられる。
それはまさに「惻隠の情」という弱い者、困っている者、あるいは敗者をあわれむ心に表れている。
この惻隠の情を持っていたからこそ武士は弱者を守ろうとするのではないだろうか。

高貴なる道徳心を持とうとする者であれば、弱い者いじめなど決して行ってはならない。